2009.11.21

ボジョレーバブル

ボジョレーヌーボー。フランスのボジョレー地方で育てたぶどうで作ったワインの新酒。単にそれだけのこと。
近年、何故かそのボジョレーの売買価格が高騰し、そして今年暴落した。話題性を仕掛けてセンセーショナルなお祭り騒ぎをしていたとき、人々はボジョレーに高い値段をつけたが、ボジョレー自身の本当の価値、本当の姿を見ていたとは限らない。それ自身の持ち味には目を向けず(ゆえにそれらは評価されず)、ただ作り上げた幻想の価値を熱に浮かされて買い求め、現実のボジョレーを味わい、そして幻滅した。
「なんだ。たいしたこと無いじゃん」
「あんなもの、値段に見合うほどの味じゃない」
そんな声があちこちから出てきた。
幻想→熱に浮かされて持ち上げる→現実を知る→幻滅してこき下ろす
こう書くと恋愛みたいだ。

本当の自分を見てもらえなかった時期。本当の自分を見ることなく幻想を押し付けられて持ち上げられていた時期。ボジョレーは確かにあまり美味しくなかった。
ヘソを曲げちゃったのかもしれない。
私も今まで試飲したことはあったけど、買ってまで飲みたいとは思わなかった。
人々が幻滅し、ベールのように現実を覆い隠す幻が滅んだ時、メッキがはげて現実が見え出した時、値段が3桁に落ち込んだ時。ボジョレーに「50年に一度の当たり年」が来た。
○エツで試飲したら本当に美味しかった。ほのかな甘さと爽やかな香り、渋すぎないぶどう皮の味が気に入って安いから買った。今年のは美味しいと思った人はわたしの周りには結構いたみたいだった。
「安くて美味しい」「素人にも親しみやすい」
押し付けられた幻想が消えたとき、ボジョレーははじめて本当の評価を得たかもしれない。

もしもボジョレーを擬人化したら。
高い時には不味くて安くなったら美味しくなる。設けたい人間の思惑なんぞ聞きゃしない。むしろ逆をやる。そんなイメージはやっぱりフランス人だろうか ?
実際はヘタレだが自分を実際よりも大きく見せて挑発し、勝手な幻想で擦り寄ってくる者や期待通りの姿を求める者達をおびき寄せ、利用するだけ利用して飽きたらわざと自ら化けの皮を脱いで幻滅させて相手の見る目の無さをせせら笑い、自分の本当の姿を見ようとする者には本気出す。ごくまれに脱ヘタレ成功。ただしごくまれに。
本当は、ありのままの自分を愛してくれる人を求めている。
カッコつけながら「ボクは真実の愛を探してるのさ」
そういう「なんちゃってフランス映画風」なイメージが似合うキャラ。

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2009.11.07

人類史のガンに対症療法は向かない

※以下は占い師の非科学的な妄想です。

米陸軍基地の銃乱射で40人以上死傷、犯人は生存

アメリカの陸軍基地で、軍医(精神科医)による銃乱射事件が発生。
犯人はイスラム教徒で、そのせいで周りから嫌がらせを受けていたと漏らしていた。
米軍のイラクやアフガニスタンへの派遣には反対意見だった。
さらに、PTSDの兵士達からカウンセラーとしてイラク・アフガンでの惨状や、その任務に従事した時味わった苦しみを聞いてきた…

現地の人も、アメリカ人も苦しむ。遠い国同士が同じ原因で苦しむ。

それは、両者が同じ病気の一部同士だからかもしれない。アメリカの好戦的な様子、イスラムのテロ、それへの報復としての空爆、イラクへの言いがかりと攻撃、民間人の犠牲者、兵士のPTSD、イスラム教徒への偏見、犯人の銃乱射… 全部一つの病気の諸症状だったら。

病気は、対症療法で症状だけを個別に見てはいけない。病気自体と発病の原因・背景を見なければ、特定の症状への対処(空爆)が別の症状(テロ)を悪化させたり、副作用(PTSDや今回の事件など)を発生させてしまい、病を広げ深め複雑にさせる。

そろそろ、症状じゃなくて根本の病気自体へのアプローチをしてみては? 
発病は、ベトナム戦争よりも前・・・WW2よりもずっと前からだと思う。地球上の特定の場所ではなく、人類の集合無意識に巣食う病因・・・それは多分、「遺伝子についた傷」のようなもの。それが、健康的な人類の営み(健康的な人類の運気)を妨げ、傷つけあい苦しみをもたらし健康を損なうような異常な営み(不幸な運気)を作り上げてしまう。

丁度、細胞の遺伝子が傷ついてガン細胞を作り始めるのと似ている。ガン細胞は健康的に機能せず、体の健康的な営みを妨げる。色んな症状が出る。その症状ごとに何種類もの薬を使う対症療法には副作用があり、体の負担が大きい。へタすりゃガンも死ぬが本人も死ぬ。
「ガンと治療の副作用、どっちが寿命を縮めたのか分からない」なんてケースもある。

「ガン細胞も死ぬが本人も死ぬ」・・・ガン細胞も死ぬが、最終的には体の全ての細胞が死に絶えるような治療法・・・それで一度人類は滅亡の危機に立たされたことがある。すんでのところでその治療は中止された。放射線が出る点はガン治療と同じ。

人類のガンにせよ、体のガンにせよ、発生したガン細胞(目に見える症状)は消えても、遺伝子についた傷自体が癒えなければ、再発しうる。未だ傷ついたままのデータ(記憶)に基づいて細胞や物事が作られてしまうことがあるからだ。
丁度、トラウマ(記憶の傷・PTSD)を抱えた人の行動パターンが本人本来の生き方を妨げるように。傷が「本来のあるべき姿」を妨げる。

ガン発生の原因(細胞の遺伝子が傷つく原因)は色々ある。発ガン性物質、不摂生、ストレス、家系・・・

人類のガン。いったいぜんたい、細胞の遺伝子(集合無意識)が傷つくほど何をしたのか、何があったのか?
体。心。人類。傷のない、元気な「本来のあるべき姿」はどれほど素晴らしいことができるだろう?


ボウリング・フォー・コロンバイン

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2009.11.05

コンプレックスをバネに・・・?

よく、「コンプレックスをバネにして何かに打ち込んだら成功した」という話を聞く。有名な例はいじめられっ子だったボクサー(名前失念)。
コンプレックスから抜け出すために、特定の分野で他者より優れた結果を出そうとするわけだ。「コンプレックスから抜け出したい」という強い思いがモチベーションやがんばろうという意志を生んでいる。いわば動力源(バネ)がコンプレックスということ。

ただ、コンプレックスを前提にしたモチベーションを維持するには、コンプレックスを手放さずに持ち続けなければならない気がする。動力源がコンプレックスなんだから、動力源を手放すわけにはいかない。
それ、コンプレックス抜け出せなくなるんじゃ・・・?
もしコンプレックス抜け出しちゃったら、それ以上続ける理由なくなるかもしれない。そこで自分がコンプレックスから抜け出さないためにアレコレ手を尽くしてコンプレックスを維持しようとすることをお勧めはしない。続ける理由が無くなったら、たぶんそれでいいのかもしれない。
ごくまれに、コンプレックスがきっかけではじめたことが、コンプレックスを前提にしなくてもその分野に適性があったことに気付き、コンプレックス脱出後は別の動力源を探してその分野を続ける人もいるかもしれない。

学業、芸能、音楽、格闘技、スポーツ・・・コンプレックスを抜け出すために便宜的に始めた物事は、あくまでコンプレックスを抜け出すためのものであり、あくまで「抜け出すための道具で」しかないとしたら、コンプレックスを抜け出した時点で、それは役目を失い、続ける理由も必要もなくなり、その人は今まで打ち込んでいたことから「卒業」する場合もあるのだろうか・・・
コンプレックスをバネにしてがんばって大成功を収めた人が、「せっかく成功したのに」と惜しまれつつその分野から引退する理由の一部はそこらへんにあるんだろうか?

それと、「何かの分野で他者より優れた結果を出すことで自尊心を劣等感から回復させる」という発想のやり方は、その分野で成功を収めた一握りの人間しか自尊心を回復できないことになる。
人並みの能力の人間は自尊心を持つ資格が無いのだろうか?
他者より優れることでコンプレックスから抜け出す手段は、他者を見下すことでコンプレックスを誤魔化す手段と紙一重(時に表裏一体?)か。自尊心のために他者を見下しているうちは、その人はコンプレックスから抜け出していない・・・優越感は劣等感の裏返し?・・・劣等感が無くなれば、他人を見下す理由が無くなる?

コンプレックスをバネにするための手段を見つけた人は、その手段がよほど自分に向いていない限りは、やがてコンプレックスからもそれを抜け出すための手段からも卒業して行った方がいい場合があるのかもしれない。コンプレックスを脱出しても(目的を達成しても)まだ手段にしがみつき、無理やり続けていたら、かえってストレスになるかもしれない。
「何のためにやってるのかわからなくなった!」「モチベーションが無いことを無理にやっててしんどい」・・・なんてことにもなりそうだ。

コンプレックス脱出の手段に何を選ぶかも重要。最初から自分に向いていない(大して好きじゃない)分野をコンプレックス脱出のためだけに無理やり自分を奮い立たせてがんばっていたら精神に過負荷がかかって鬱のようになってしまうこともあるだろう(酷ければ本当に鬱病になるケースだってあるかもしれない)。
コンプレックス脱出の手段に選んだ分野自体がコンプレックスに基づいて選ばれたものなので、その分野にエネルギーを注ぐとコンプレックスにもエネルギーを与えてしまうこともありそうだ。
「このコンプレックスが無ければこんなことしなくてよかったのに・・・」「本当はこんなことしたくなかった!」みたいな感じ。

親が自分のコンプレックスに基づいて子供に特定の分野に打ち込むことを強いてしまうとさらに複雑だろう。子供にとっても負担だし、子供にそれを打ち込ませるためにエネルギーを使うこと自体も負担が大きい。
子供が何かのプロになることを目指してがんばっている親子がそろって精神科に通うケースもあるとのこと。
それでも彼らはがんばり続けることをやめないのだろう。

「コンプレックス」とは何か・・・それをコンプレックス(またはその裏返しの優越感)であると設定した原因や背景は何か・・・そこに何か秘密があるような気がする今日このごろ。
その秘密が分かれば、その人が自分で自分を尊ぶ(自尊心を持つ)ための何かにつながるかもしれない。

人間が体だけの生き物ではなく、体と心の両方で出来た生き物だとすれば、体を守り育て健康を維持しようとする本能同様に、心を守り育て健康を維持しようとする高次の本能があってもいいように思う。心・・・あれも「生命」なわけだから。
人間は己の生命のうち、「体」についての理解はそこそこ進んでいるけれど、「心」については自分のことながらあまり分かってない。
もしも人間が「心」について深く高度な理解をするようになったら・・・その時代にはまだ占い師は存在するだろうか?


容姿・劣等感・個性

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2009.10.15

復讐心の裏側は・・・

※以下は占い師の個人的・独善的な考えです。

占いで人様の相談にのっていると、恋人に騙された、手酷くフラれた、恋人を奪われたなど様々な理由で復讐心を抱えた方とお会いするケースも結構ある。復讐のために相手を不幸にする方法や、相手が不幸になる時期を占ってくれと頼まれることもある。無論、そういうご要望はお断りさせていただいている。それに、そんな占いはちっとも本人の救いに役立たない。その占いで本人が救いに気付くこともない。

とりあえず、「復讐心」というものは、何かへの執着的な憎しみ(許せない気持ち)が無ければ発生しない気分ではないかと思う。別の感情、例えば悲しみや驚きや恐怖が原因で 「復讐」という行動につながるという話は聞いたことが無い。
「憎しみ」という感情は長引けばストレスになりうるとても苦しい感情の一つだろう。この苦痛を我慢し続けることが難しく耐え難い。この苦しみからなんとか解放されたい。この苦しみがまぎれるなら、「復讐」をしてみたい。この苦しみを解決する唯一の方法が「復讐」しかないのなら、ためらわない・・・
憎しみゆえに「復讐したい気分」が生まれるのなら、復讐心は「憎しみ」からの救いを求めている証。自分を救う明確な手段が思いつかないから仕方なく「復讐(相手の不幸)」にすがっている状態かも。 これ以上憎しみに己を蝕まれたくないからわき起こる発想の一つな気がする。これ以上憎しみを持ち続けたくないのかも。

「復讐」すれば憎しみを手放せる、憎しみ続ける苦しい状態から解放されると信じ、願い、思い込み、すがる・・・
「復讐心」が「憎しみから自分を救いたい気持ち」から生まれるのだとしたら、「復讐心」を持つ人の本当の目的は「自分を憎しみから解放すること、憎しみ続けるのをやめられるようにしてあげること」かもしれない。「相手の不幸」はそのための手段の一つになると思っただけのことで、本当の目的ではないのかもしれない。
復讐は自分を憎しみから救う「手段」であって「目的」じゃない。じゃあその肝心な「目的」の方を叶える方法をひとつに限定せずいくつか探ってみてはどうだろう? その方が「目的」の成功率が上がる。

復讐心を抱くほど長く尾を引く相手への恨み憎しみ、許せない気持ちといった「その事にこだわる気持ち」をたどっていくと、実は気付かないうちに自分の嫌な部分、変えたい部分(変えられる部分)を相手に投影していて、その「変えたい部分」を忘れずに覚えておきたい(自覚したい)無意識の気持ちが長く尾を引く執着の原因になっていたりすることもある(あくまで一例)。

例を挙げれば、自分を騙した恋人(恋敵)と似たようなズルさを自分も持っていて、そのずるい部分を変えたい、放置したくない気持ちがあの時の相手の憎むべきズルさを鮮明に記憶させている、なんてことも。そのことに気付いたらなんだかスッキリして、復讐にこだわらなくなった(憎しみから解放された)ということもある。
別の例をあげれば、憎しみを生むような嫌な体験をしたとき、その時の自分の選択・態度・振る舞い・発想等に無意識では後悔しており、今後同じ失敗を繰り返さないために、どこがどう心残りだったのか(どこをどう改めたいのか)に気付きたいという無意識の思いの裏返しがその当時の憎しみに固執させる場合も中にはあるようだ。
もしも、その時の自分の態度や振る舞いや発想が好きな人を失った原因だったりすれば(相手を試すつもりでわざと遠慮や冷たい態度をしてみせたら見切りをつけられ別の人とくっつかれてしまった等)・・・

自分の変えたい(改めたい)部分、自覚したい部分が存在することに気付きたくて感情が尾を引くということは、裏を返せば自分の幸せな人生のためにその部分をどうしても変えたい、自覚したいという証かもしれない。その部分が以前から気付かぬうちに自分にデメリットを与えていたのかもしれない。
(この手のことは恋以外の出来事でもありうると思う。痴漢に遭ったが面倒がって何も言わずに我慢した数日後、我慢したこと無意識に後悔していたことが背景となってふつふつと捕まらない痴漢への憎しみが湧いてきたとか)

復讐を、「己を救うという目的を叶える唯一絶対の方法」と思ってしまえば復讐しない選択は憎しみを手放せず我慢を続けるだけの救いのない無意味な選択だと思えるかもしれないけど、復讐と同じ目的を復讐以外でかなえることが出来れば・・・
例え相手が不幸になっても、それで自分が憎しみを手放せる保証は無いわけで・・・
不幸がきっかけで相手が自分に対して罪悪感を持つ保証は無いわけで・・・
「手段の目的化」には、くれぐれもご用心。

人間が他者に罪悪感を持つためには、本人がその相手を尊重していたり愛している必要があるのなら、 誰かに自分への罪悪感を求める気持ちは、その誰かから愛情を求める気持ちでもあるかもしれない(特に恋愛の場合)。 そしてその気持は、その誰かが自分と同じ価値観を持つように求める気持ちでもあるのだろうか。「私はもっと尊ばれ愛されるべきで、ゆえにあなたもそう思って私を愛するべきだ」
(場合によっては、『愛情が得られるなら必ずしもあの人からの愛情じゃなくてもいい』なんてケースがあるかもしれない)
「復讐心」を抱く背景に、自分を苦しみから救ってあげたいという気持ちや今後の幸せのために自分の「ある部分」を変えたいという気持ちがあるなら、それは自分の幸せを願う自分からの愛情の証でもあるのだろうか。もしそうなら、少なくともその人は、無意識のうちに自分からしっかりと愛されているわけだ。
多分、恋愛のもつれなどで復讐を考えている人は、相手の不幸より自分の幸福について考えた方がいい。

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2009.09.22

吊るされた男の囁き

私は今までの価値観では想像もつかなかった素晴らしいものと出遭った
己の価値観が優先順位の頂点に据えたものをはるかに上回る尊さを見つけた

我が価値観の最上を超えた更なる素晴らしきものに向かうため
今までの価値観では到達できなかった尊き価値を得るため
私は「かつて最上であったもの」への執着から己を解放しよう
「かつて最上であったもの」を基準にして作り上げた世界に別れを告げよう
「かつて最上であったもの」に縛られ支配された生き方から己を解放しよう
「かつての最上」を握り締めていては、それを上回る大きさの価値をこの腕に抱くことはできない

「かつての最上」から得たものを補うどころか、それをはるかに上回る本当の価値と喜びが手に入るのなら 
この先に「かつての最上」を超えた可能性が待っているのなら
それは「利得」であって「損失」ではない 
例え 「かつての最上」に縋って生きる世界を手放した結果が こんな姿だとしても

ゆえに、私の顔は苦痛や恥辱に歪むことは無く 更なる尊き世界へ向かう喜びと期待に輝いている

Hanged_man

カードの個人的イメージ:
自己犠牲 尊い犠牲 より重要なもののための些細な犠牲 他人は不幸や犠牲と見るが、本人にとっては必ずしもそうではない 逆境のさなかに訪れた発想の転換 試練を発想の転換で耐え抜く・解決する 本当の価値が損失を拭い去る 顕在意識は嘆くが、無意識は納得している 本当の望みを自覚し執着から解放される ドM疑惑

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2009.08.31

選挙結果の議席数をオカルト的に妄想

※以下はしがない占い師の妄想です。科学的根拠皆無。

大衆の予想通り、民主政権が誕生した。
ヒンズー数霊術で自民の議席(119)と民主の議席(308)を計算してみると、どちらも「11」という同じ数字になる。恐らく、両者は同じ運命の裏と表なのだろう。ヒンズー数霊術で計算すると鳩山由紀夫氏の霊数も11だ。
この「11」という数、ヒンズー数霊術では特別な意味を持つ数字だ。ヒンズー数霊術では1~9の一桁台の数字を太陽系の惑星に一つずつ照応させているが、11は特別に太陽と月の要素が合わさった数字とされている。二桁の数字で惑星に照応しているのは11だけ。

11は「抑圧」という意味のある8と「(抑圧に対して)解放」という意味のある3が合わさった数でもある。
タロットだと11番は「正義」のカード。今年を象徴するタロットカードの一つでもある。 カードの一般的意味は正義、倫理、均衡、調停、裁き、因果応報、客観性など。
11は太陽と月の合わさる数字。西洋占星術の性格占いでは太陽と月が合わさると「裏表が無い・正直」という意味になる。

自民が長年隠蔽(抑圧)してきた問題が日の光の下に暴かれ(解放され)るかもしれない。
(野党になった自民が何らかの形で自分達のやって来たことを批判する破目になったりはしないだろうか?)
「自民が長年放置してきた問題と向き合う」という点を通して両者は同じ運命を辿る? 
ひとつの運命のもとに統合される裏と表。
自民と民主、両者の関係は「太陽と月」のようなものだろうか。今まで半世紀もの間「太陽」の地位にいた自民は「月」に。月の立場にいた民主が「太陽」に。

太陽は大きく月は小さい。太陽が月に凌駕されることなどあるわけが無い? 忘れる無かれ。月は、太陽を飲み込むことがあるということを。「日食」という形で太陽に対して「死と再生の儀式」が出来る唯一の星であることを。太陽がうっかりこぼしたままの光(時に課題)を月だけが受け止め受け継いでいることを。
太陽は、伝統的に「日本」という国のシンボルでもある。
此方と彼方、真っ二つに引き裂かれて死んだ太陽は、生き返るだろうか? オカルト的には、「死と再生の儀式」が成功すれば、太陽も月も新しく生まれ変わるとされている。両者とも今のような姿ではなくなる。
そのためには、抑圧された古い問題を解き放つことも重要。
ひとつの運命のもとに統合される裏と表。
3年後、東京(てことは永田町も)のほぼ真上で日食(金環食)がある。その時までに何か良い兆候があればなあと思う。

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2009.08.20

ディ○ニーがアニメのネタにしそうな動画

一心同体の仲良し3匹が自由気ままに大冒険する話が作れそう。
舞台はアメリカよりチェコの旧市街の方が面白いかな・・・
「3匹の目を通した人間模様」なんてのもいい。

動画(右クリックで別窓)

チェコの旧市街

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2009.08.05

ピョコタン的不思議ライフスタイルのすすめ?

皆さんは「ピョコタン」と言う漫画家を知っておられるだろうか?
彼の生き様はまじめな人からは目の敵にされそうなものかもしれない。

彼の生き様が垣間見られるインタビューをご覧頂きたい(右クリックで別窓)

こんなんでどうして今まで生きてこれたのか首をかしげる人、「自分はこんなに毎日がんばっている(苦しんでいる)のに何だあいつは!」といらいらする人、思わず笑ってしまう人、色々なリアクションがあるだろう。私は彼の持つ「楽しさを食べて生きる力」に尊敬の念を持った。
「ピョコタン」はお金で食べてるんじゃなくて、「楽しさ」を食べて生きてるんだろうな。そういう運勢を作れる人。一種の生命力。

そんな彼の生き様を支え、楽しさを食べて生きる運勢を作った生命力の一端をご覧下さい。
 続き
・・・ちゃんと「楽しさ」をエネルギー源にとんでもない運勢を作っている。

タイミングと物理的背景(=時間と空間)、ピョコタン独特の漫画を発想していた本人の感性、本人の興味が向く方向(本人が楽しいと思った物事)、本人と参加者の事情…色々な条件が全てひとつに集約した偶然が「ポーカー大会の奇跡」を発生させ、彼の運勢(可能性)をさらに切り開く。そんな集約の偶然(もはや奇跡)を楽しんで漫画にし、読者が読むことで読者をも楽しませ、その結果漫画家としての運勢(可能性)までUPするかも知れない。
まるでいろんなことがうまい具合に一つの結果へ集約するべく計算された大規模な 「運勢的ピタゴラ装置」みたいだ。

「特に気合を入れるでもなく、ただ楽しさを求め楽しさを食べることで周囲に新たな楽しさを生み出し供給する」こんなことできる人が他にどれだけいるだろうか?
ポーカー大会の奇跡はシンクロニシティー(意味のある偶然の一致)のなかでもかなりハイレベル。「異様な調和」とでも言えばいいのか? もはや人間業じゃない。というかこれは彼個人(自我意識)の仕業じゃない。 「ピョコタン」は努力・根性・勤勉といった人間の能力の中でも現代文明の前提基盤になっている「自我領域の力(物理的知性)」をよりどころにした生き方をしていないのではないかと思う(彼自身はそんなこと意識してないと思うが)。

ジョジョ風に言うと、
「な…何を言ってるのかわからねえと思うが努力とか根性だとかそんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ  もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…」

こんな運勢を作れるほど高度な生命力は意識的に作れるわけがない。個人の無意識世界にある運勢を作る領域(多分個のレベルを超えた集団の無意識とつながっている)との連動率・シンクロ率が半端じゃない。 自我領域を超えた力と連動した生き方・・・自我の視点から見れば「インチキ」か「奇跡」のどちらかだろう。
もしかすると、自我(物理的知性)だけの力を前提基盤に使った生き方に限界が来ているのが今の現代社会で、それに対する別のライフスタイルの一例が「ピョコタン」なのかもしれない。彼の自我領域を超えた生き方は、どちらかというとチベットあたりで山篭りをする修行者に近いかもしれない。

「人間」と言う生き物は、私達が頭(自我)で考えているようなものじゃないのかもしれない。私達ですら、私達を知らない。

「楽しさを食べる生き様」…
いつかそんなことさえできるほどの境地に到達できる日が私にも来るだろうか。

文明と生命力の使い道
人々を社会に合わせさせる? 社会を人々に合わせる?
村上春樹氏のスピーチ

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2009.08.02

ラリック展に行ってきた

国立新美術館で開催されていたラリック展に行ってきた。箱根のラリック美術館へ数年前に訪れたことはあったが今回は海外の美術館に所蔵されている作品も集まっていた。ラリックの作るジュエリーは実用品というより夢や妖精やファンタジーの世界を表現しているようにしか見えない。アレを身につけて似合うように使いこなせる人は本当にいるんだろうか? と毎回首を傾げたくなる。ファンタジーモノの少女マンガ(山岸涼子など)に出てくるキャラクターなら似合うかもしれない。特に上のサイトのトップにあるケシの花をモチーフにしたハットピンはおしべやめしべの細部、花びらの脈までデザインされていて圧巻。実際のケシの花と比較してみるとすごさがよく分かる。このジュエリー、「実は人間じゃなくてエルフが作りました」って言われたらちょっと信じちゃいそうな気がする。
ラリックがジュエリーを手がけた時代は19世紀の終わりから20世紀初頭。丁度女性の衣服がフリルやレースびらびらのコルセットつきのものからコルセットなしの現代に近い服に変わっていった時期だ(この時期にシャネルがデザイナーとして活躍しはじめる)。服の変化に合わせてジュエリーのデザインも微妙に変化しているが、幻想的な雰囲気は色あせない。
ラリックはジュエリーのほかに花瓶・香水瓶やテーブルセットなどのガラス製品も手がけており、どれも実用品ではなく美術品のレベルだ。それらの作品も一堂に会していてラリックに興味のある人にはお得な展示だった。
占い師としては、ラリックの手のひらが写った写真が展示されてたら多分凝視していたと思う。残念ながらそういう写真はなかった。

ちなみに国立新美術館は美術関連の資料が充実した図書室もある。そして波打った一面ガラス張りのロビーが美しい。そこでお茶するだけでもかなりよい気分になれると思う。

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2009.07.01

人々を社会に合わせさせる? 社会を人々に合わせる?

日本では、もうずいぶん前から社会のさまざまな場所でストレスを抱え心身ともに健康を損なう人が多くなっている。いわゆる「ストレス社会」というやつか。
現代は文明が進歩していろいろ便利になったけれど、便利さに比例して楽になっていくと思われた社会は、なぜか楽にはならなかった。楽するために便利さを追求したはずが、さらに利益を追求するために、「楽」を犠牲にして利益を優先する生き方を選んでしまった。「楽」であることより「利益」があった方が幸せだと思ったのだろう。なもんで、便利になっていけばいくほど、楽じゃなくなっていってしまったのかもしれない。「過労死」「過労鬱」は文明が便利になってから発生した病だ。楽しようと思って文明を便利にしたのに、いつまでたっても楽ができない。

以下はそういうことを皮肉ったと思われるジョーク:
メキシコの田舎の漁師が生きのいい魚を何匹か獲ってきた。それをみたアメリカのエリートビジネスマンが言った
ビジネスマン「いい魚だね。どのくらいの時間漁をしていたんだい?」
漁師「そう長い時間じゃないよ」
ビジネスマン「もっと長く漁をすればもっと魚が取れるのに」
漁師「俺と家族が食べる分はこれで十分さ」
ビジネスマン「じゃあ余った時間は何してるんだ?」
漁師「日が高くなるまでたっぷり寝て、魚を取って、戻ったら子供と遊んで、飯の後は女房とシエスタ。夜になったら友達と一杯やってながらギター弾いて歌う。・・・そんな感じで一日終わりだな」
ビジネスマン「僕はハーバードでビジネスを学んだから君にアドバイスしてあげよう。君はもっと長い時間漁をすべきだ。家族が食べる以上の魚を獲って、余った魚は市場で売り、お金を貯める。お金がたまったらもっと大きな漁船を買う。大きな船なら漁獲量も増えるから更に儲かる。そうやって儲けを増やしていったら市場で魚を売らずに自前の工場を建ててそこで魚を加工する。その頃には君はこんなしょぼい田舎じゃなくて、メキシコシティーに引越し、ニューヨークやロスで企業の指揮を取れるようになるよ」
漁師「そうなるのに何年かかる?」
ビジネスマン「20~25年かな」
漁師「それからどうなるんだ?」
ビジネスマン「(ニヤリと笑って)凄い事になるよ。今度は企業の株を売却する。そうすれば君は億万長者さ!」
漁師「それで?」
ビジネスマン「そしたら引退して、田舎に住んで、日が高くなるまでたっぷり寝て、昼は魚釣りしたり子供と遊んだり奥さんとシエスタしたり、夜は友達と一杯やりながらギターを弾いて歌って余生を過ごすんだ。ね、素敵だろ?」

同じ利益を半分の時間で達成できれば、利益も時間も得られて一挙両得。それが楽ってことなんだと思うけど、どうやら便利な文明を生きる人々は、「楽を犠牲にして利益を追求しまくらないと楽になれない」と思い込んでしまったらしい。楽を犠牲にしたら楽になれない。単純なことだ。
「健康のために命を犠牲にしなければ健康は得られない」みたいなジョークのようにも感じる。
楽を求め楽を得る術を持ちながら、それを生かせない。特に日本はそういう傾向があるのかもしれない。

文明が便利になってから生まれたストレス社会。そんな世界では、よく「生きてるのがつらい」「生きにくい」という言葉を耳にする。これは多分、生きてるのがつらいんじゃなくて、そんな生き方がつらいだけだろう。

文明が進歩して以降の近代社会というものは、人間達が「その方が生きるのに便利だ」と思って作っていったシステムなわけだから、人間達に従い人間達に合わせて役割を果たすのはあくまでも社会の側。
しかしいつの間にか人と社会の立場が逆転して下克上になってる。社会であれなんであれ、「システム」というものは、物事の進歩や発展のためにその時の状況に合わせて便宜的作られたもの。いわば階段のステップように上へ登るための一時的な踏み台として利用するものだ。決して恒久的な支えになるものではない。もしもそれを恒久的な支えにしようとしたら、それは階段で一つのステップに踏みとどまり上へ登れずに足踏みしている状態。進歩も発展もしていない証。階段のステップを上へ登る踏み台ではなく、その段階に固定して縛りつけることになる。上昇する進歩と発展は可能性と共に抑圧される。すると階段を登ろうとする本能は、多分苦しむ。

もはや人間達は生物的に見ても自分で作った今の社会に己を合わせられなくなって来ている。無理に合わせようとすると人間本来の生命活動に支障を来たしストレスなどで健康を損なう。それでもなお自分を社会に合わせようとしている。時には、合わせられない自分を責めながら。合わせられない誰かを責めながら。
楽するために作ったはずの便利なテクノロジーを、楽を犠牲にしてまでやたらと乱用した結果、人間を含む自然界全体にストレスを与えてしまった。
そういう不便な社会には自分を合わせられないと感じた気後れでニートになった人もいる?
不便な固定観念に支配され、自由な発想や生き方を束縛され、抑圧されてしまった社会。支配者が目に見えない分だけ、独裁者よりもタチが悪い?

便利さを発達させたのは楽をしたいから・・・楽をしたいのは、今までとは違う自分を生き、今までとは違う生命の可能性を見つけたいから・・・生命力が圧迫されたら、それもできない。生命力の可能性は、閉ざされてしまう。
楽になった経験が少ないと、楽になった時間をどう生きればいいかわからず不安になって仕事中毒になることさえある。楽を求めてはいながらも、楽が怖い。それは、今までと違う生き方(=楽によって得られるもの)が想像もつかない未知のものだから。それは怖い。視野が固定されて今までのステップだけを凝視したまま前が見えずに階段を踏み出すようなもの。
そこまでになる前に、自分の生きる喜びには「利益の創出(仕事)」以外の様々な可能性やバリエーションがあることを気付いて受け入れておきたい。ステップは一つきりではなく、今のステップの先には別の新たなステップがあることを何となく感じておきたい。進化の階段。今までのステップは、次のステップの踏み台だ。仮に今までのステップの名前が「経済成長」とすれば、次の別のステップ(やはりこれも一時的な踏み台なのだが)の名前は、どう呼べるようになるだろう?
 
かつて人間が自らの生命活動を支援するために作り、しかしなぜか人間の生命活動を圧迫するようになった下克上的社会。SF作家ならロボットの反乱、村上春樹なら「壁」の例えで表現し、タロット占い師なら「塔」で表現するかも。
そんな下克上状態を正常モードに修理する時は、文字通り「天地がひっくり返る」事態になるだろう(ちなみに今年は四柱推命では下克上を象徴する干支らしい。下克上モードの修理は、『下克上の下克上』と表現できるだろうかw)。それが修理のサインかもしれない(去年から修理期間始まってる?)。そのサインを、人によっては「終末」と表現しそう。特に、修理前の下克上モードを正義として強く執着して生きる人には恐ろしげな終末に見えるかも。
(けれども人は、時に終末願望を持つ。無意識の本能が修理を望んでいるからかもしれない)

修理中は人間なら入院中や手術中みたいなもので、今までと勝手がちがう分色々大変だけど、今までの不具合や圧迫が取れる良い兆しでもありそう。故障中より修理中の方が可能性がある。そして、単なる「修理」にとどまらず、そこからワンステップ上がって経験を生かした「改修」ということだってありうる。
修理が終わった楽器は、以前よりいい音が出るはず。 時には改修されて新たな可能性を秘めた楽器にだってなるかもしれない。

文明と生命力の使い道
村上春樹氏のスピーチ

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