2008.08.21

『崖の上のポニョ』とカタルシス

http://aya-shumi.cocolog-nifty.com/heya/2008/12/post-0a93.html『崖の上のポニョ』を見た。ポニョの樹木希林とトトロやメイを掛け合わせた魚顔がめちゃくちゃ可愛いと思うのは私だけだろうか? そして宗介は本当に「よく出来た子」だ。私なんか足元にも及ばない。絵は相変わらず美しい。
ストーリーやキャラクターについての感想は他のブログでいくらでも書かれているだろうから、メインは心理学的、象徴的な視点による『崖の上のポニョ』の解釈にしようと思う。(読者の脱落率90%)
まず、この作品のテーマは他のいくつかの宮崎作品同様、「カタルシス」だろう。宮崎監督曰く、この作品で「初源なるものをためらいなく描いて、不安と神経症の時代に立ち向かいたい」という意図があったそうだ。
ということだから、遠慮なく心理学的なシンボルを用いてこの作品を説明してみる。まず「水」は人の精神発達・精神活動のスタート地点である無意識の象徴。そしてそこにとけ込んだものの象徴でもある。そして水が最終的に集まる場所、「海」は集合無意識の象徴。そして「魚」は無意識の領域に住み、普段は水の外へ出ない(意識の領域へは出てこない)存在。しかし確かにそこに存在し、稀に跳ね上って一瞬水面の上(=地上)に飛び出す。そしてある特別な条件がそろった時、水の外の世界から抜け出し、一瞬ではなくずっと地上世界(顕在意識の領域)の住人になる。
無意識にいるはずのものが意識の領域に浮上し、そこにとどまり続ける。それはどんな条件の時に起きるかと言うと、
「意識化すべきものが何らかの理由で無意識領域に強く抑圧されていて、そのために心が緊張し行き詰っている時」。
「解放・浄化すべき鬱屈が何らかの理由で無意識領域に閉じ込められ抑圧され、鬱屈の限界が来ている時」。
その条件下におかれた時、心は抑圧された部分を本能的に「外へ出したい」とそれこそ心から切に思うようになる。そして「抑圧する側」との間に葛藤(戦い)がはじまる。本能からの・心からの思いは強いエネルギーを秘めているので、抑圧側との戦いはとても激しくなる。そして大概は抑圧側の隙を衝いて勝利する(ある宗教はそれを『ハルマゲドン』と呼んだかも)。そのエネルギーは抑圧や障害を乗り越える力になる。
①と②はそのまんま人が神経症に陥る時の心理的環境といえる。「自分の何かを必要以上に押し殺している」時、神経症は起こりやすいそうだ。そうなったら確かに不安だろう。けれどもそれは、「行き詰まりの打開」「鬱屈の浄化」「抑圧からの解放」(=カタルシス)のチャンスでもあるわけだ。不安の正体を知れば、怖くない。
重要なことは、「抑圧してきた意識化すべきものの真相と向き合い、拒絶せず受け入れること」。すると神経症は回復に向かう。その過程で、時には無意識にとけこんだものを出す機能のある「涙」があふれ出すかもしれない(あれも海水みたいなものだ)。また、「意識化すべきもの」は時にアニマ/アニムス(理想の異性像)の姿で夢の中に現れる(宮崎監督のアニマは少女の姿をしているのだろう)。

さて、以上のことを『崖の上のポニョ』に照応させると、「抑圧する側」はポニョを元の海へと一旦は連れ帰ったフジモト。無意識領域、それも集合レベルの無意識領域からの脱出を心から望んでいる「意識化すべきもの」はポニョだ。ポニョは抑圧の隙を衝いて浮上を決意。するとポニョを乗せた無意識(=水)が地上世界(顕在意識領域)に向かっていっきに膨れ上がり、溢れ出す。地上世界(街)は溢れ出した水で覆われる。
そして地上世界へ浮上してきたポニョという「意識化すべきもの」に気づき、その真の姿を知り受け入れた地上世界の住人、宗介・・・例え己の醜いとされる部分であっても、押し殺さずに受け入れ認めることは、一種の愛。
この「抑圧の隙を衝いて無意識領域から地上世界へ浮上し移住すること」は主体となるポニョ一人の力で行われたものではない。まず宗介の愛、同じ海に住む無数の妹達の協力、ポニョの母親である「海の女神」の説得と後押し、そしてとうとう納得した抑圧側のフジモトが「作戦」を実行したからこそ成功したものでもある。しかも、恐らく集合無意識の象徴である「海の女神」は最初から何が起きるか予想できていたのだろう。ポニョが地上の迷惑を考えず津波と共に猪突猛進に宗介の元を目指したのは、それがポニョのみならず集合無意識全体の意志、すなわち不安と神経症を抱えた時代の意志だったから。その証拠に、誰も津波を嘆かず、むしろすんなり状況を受け入れている。

この作品は、「不安と神経症の時代に立ち向う」ための「集合無意識レベルからのカタルシス」を描いているようだ。
無意識世界を象徴的に描いたものだけに、ストーリーは睡眠時の「夢」のように論理的整合性が怪しい。だから観客の意識を通り過ぎて無意識にダイレクトに伝わるかも。「地味で分かりにくい作品なのになぜか心に残る」と言われているのはそのせいだろうか。もしそうなら、宮崎監督のやったことはある種の呪術だ。
抑圧は、単なる個人の無意識領域にとどまらず、集合無意識にある。多くの人が意識化すべきものを無意識領域に抑圧していることで、個人の問題を越えた集合無意識レベルでの抑圧になっているのかも知れない。
彼の呪術が本格的に成功すれば、カタルシスは成し遂げられこの時代の神経症と不安は癒される。
海(=生命の源)に例えられる集合無意識は、時代の特徴や時代の潮流(意識の世界における集団レベルでの生命活動)を作る源と言われている。この「不安と神経症の時代」、人々が抑圧の元から解放し意識化すべきものとは一体なんだろう? 向き合う準備は、出来ているか?

ナンバープレート「333」の意味?
実は、占い師の目から見て個人的に非常に面白いと感じた偶然(必然?)がある。劇中に出てくる宗助とポニョとリサの3人が乗る車のナンバープレートが「333」。「3」はヒンドゥー数霊術で木星の数字で、「膨張・発散・解放」と言う意味があるのだ。それが3つ並んでいる。まさしく「解放」の三位一体。3人はそれぞれ「カタルシス(抑圧からの解放)」において役割を担っている。カタルシスを「発生させる者(=ポニョ)」「一旦受け入れて次の段階への態勢を整える者(リサ)」「地上での居場所を引き受けカタルシスを終わらせる者(宗介)」。
しかもポニョがフジモトによるDNAの抑圧を破り人間になりかけるシーンでは手足が3本指だった。もしや宮崎監督は、ヒンドゥー数霊術を知っておられるのだろうか? (数秘術の中では結構マニアックな占いなんだけどな・・・)
(もっとオカルトマニアックな解釈がお望みなら、アダム・カドモンの暗示が隠れてるとでも言っておこうか?)

※以下ネタバレ含む
作品の中で、フジモト自身もまた世界に行き詰まりを感じ、それを打開するために海の時代を逆行させて地上の支配者にする計画を作った。その準備として魔法の源でもある『命の水』をせっせと大事に貯蔵していた。しかし、ポニョが脱走中に全部飲んじゃった&海にばらまいちゃったということは、彼の計画では行き詰まりを打開できないのだろう。彼の「行き詰まり打開手段」は「解放」ではなく「抑圧」。カタルシスの逆だったから。結局、抑圧を抜け出したポニョが海の様子を変えて行き詰まりの打開をやってのけた(海の女神曰く『素敵な海ね』)。そしてポニョの始めたカタルシスの終了作業をしたのが、ポニョを真の姿から愛し身元引受人になった宗介。
己を抑圧し行き詰った世界の神経症の終焉と再生。それが二人の世界の救い方。
タロットなら20番の『審判』。

(より小規模で思春期の少女達に起こりうるカタルシスを描いた有名なアニメ作品が「少女革命ウテナ」かもしれない・・・)

予言とカタルシス願望 エコロジーと終末論 自分の中の暴れ馬 短所含めてありのままの自分を愛して True Colors ヘルメス伝説と進化の記憶 「少女革命ウテナ」とタロット

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2008.01.08

タモリのウソ外国語

「密室芸」と言うらしい。あくまでウソ外国語。しかしどの国の物まねも素晴らしい。
大学で中国語を習った身としては、タモリの中国語のピンイン(基礎発音)は大学の先生より上手に聞こえる。
リンクは右クリックで別窓。

各国バスガイド

納豆を初めて食べた外国人

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2007.11.25

サラリーマンNEO

25日。どこかの予言者が「25日。千葉県に地震が起きて東京がパニックになる」と言ったらしく、一部では盛り上がっていそうだが、そんなことはお構いナシに東京は天気の良いのどかな休日を過ごしている。
今日はそんな休日にぴったりのお笑い動画をご紹介。
「サラリーマンNEO」というNHKで人気を博したコント番組がある。サラリーマンをやっていると一度は遭遇しうる光景や出来事を面白おかしくコントにしている。ブラックユーモアでもある。
先日初めてそのコントを見ることが出来た。NHKで実際に放送されている番組のセットを使っているところが笑いを増幅させる。実際の番組そっくりに似せたテロップが出てくるだけで笑いそうになる。
一度お試しあれ。

テレビサラリーマン体操

Neo Express

がんばれ川上君

サラリーマン語講座

そのほか、youtubeで「会社の王国」や「セクスィー部長」と検索してみると面白いものに出会えるかもしれない。しかし出会えない可能性も高い。
私の予言だ。

職場の「困った人」

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2007.09.12

デスノート+ホットペッパー

(右クリックで別窓)

その1

その2

飲食中の閲覧はおすすめしない。多分噴くから。

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2006.10.26

攻殻機動隊とオカルトの世界

※とっても非科学的な話です。
『攻殻機動隊』。昔大学の授業でこの作品群の存在を知った。そして最近になってテレビシリーズをやっと見た。最新作ではないものの、今見ても面白かった。気に入った登場人物はトグサとバトーかな。タチコマがアニメ声というのは以外だった。
このアニメ、マトリックスの監督が影響受けたというのがよくわかった。マトリックス同様、オカルトやグノーシスなど形而上学的なテーマや、ユング心理学のような要素も ある。
この「攻殻機動隊」という作品の中にも、そのうち占い師とか霊能者みたいなキャラクターを登場させたら面白いんじゃないかと思う。占い、特に易やタロットなど偶然性に頼る占いは、見た目はアナログだが実は非常にデジタルな頭の使い方をしているからだ。
全く電脳化していないにもかかわらず、占い師達は昔から人間の集合無意識の領域(サーバーのソース領域またはデータベース)や、その人が自分の現実を作る時の運勢というデータがしまわれている領域(ネットで言えば「個人HPのソース領域」)にアクセスし、相談内容をキーワードにした検索作業をして来た。その精度は占い師の腕次第。
そして検索結果は、カードや筮竹に反映される。さらに検索結果を分析して、相談内容のアドバイスとして何がふさわしいかを、解釈する。解釈も占い師の腕次第。
はたから見れば、「偶然出た結果が的を得ている」「シンクロニシティーだ」と見える。 何のことはない、人工的にシンクロニシティーを起こしているだけ。
丁度Googleのキーワード検索で「自分の調べたいことが検索結果の上位に入っている」のと同じ。 Googleがあなたの心を読んでわざわざ気を利かせたわけでも、超能力じみた力を持っているわけでもない。システムがそういう仕組みになっているだけ。占いも同じ。運勢や無意識の深い領域が便宜上そういう仕組みになってるだけ。
生存環境が厳しかった原始の時代、人間は生存のためにデジタルな頭の使い方をよくやっていた。
「今日はあっちに行けば獲物と出会いそうだ」「このキノコはおいしそうに見えるのに不吉」「何だかこの場所は危ない気がする」「一週間以内に雨が降る(止む)」などなど、無意識の領域で場所やモノの情報を検索し、その中に有効な情報があれば予感や直感といった、個人のゴーストの中でも深部の無意識領域から来る機能で認識する。昔はそんなことが得意な人達はシャーマンになったりしもしていた。
シャーマンの中には俗に古くから「幽霊」と呼ばれる強烈な印象や感情(または強い意志?)のために、死してなお意識(=ゴースト)や、或いは意識のデータの一部だけがその場に焼き付けられて残っている/さまよっている状態の者を感じ取れる人もいただろう。ゴーストを使って他人の意識をジャックする(乗り移らせる・祟らせる)ような黒魔術師だっていたかもしれない。自分が自由に身体を抜け出してゴーストとして活動できるシャーマンだっていたんじゃないかと思う。ゴーストになれば、幽体離脱も、集合無意識へのダイブも、お手の物。大昔なら、草薙素子はアマゾネスにして部族を支えるシャーマンだ(95年の『攻殻機動隊』のエンディングは日本のシャーマニズムである神道の祝詞が含まれている)。
もう少し時代が下ると、地位も財産も全て捨てて、一歩間違えれば攻性防壁のように脳神経が焼けたり廃人になるかもしれないほど危険で難しい修行(ある種のヨガなど。)を積んでまでデジタルな能力を高めようとるする人々も出てくる。
・・・・・・しかし今は、人間が生存のためにそんな原始的な能力を使わなくて済むよう便利な科学を発達させてきた時代なので、その能力を使ってる生き物の大部分は動物達くらいなものだ。多くの人間達はその力の使い方を忘れている。だからその力でアクセスできる領域が身近じゃない。だけどやっぱり興味があるし、面白そうにも見える今日この頃・・・・・・

例え人間が電脳化された時代でも、他人の意識をジャック出来る時代でも、ゴースト深部に鎮座する個人的無意識の、そのまた向こうに鎮座まします集合無意識を検索する方法は、皆知らないままなんだろうか?

SSSのオープニング、気に入った。

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2006.09.10

ルパン三世の今と昔

よく「ルパンは昔の方がよかった」という話を聞く。
まず制作側の原因を邪推。
ルパンの根底に流れているのは「お洒落」。アクションさえもお洒落。現在のTVスペシャルは、制作側にいわゆる「アニメオタク」が増える傾向にあり、「アニメ画像」を作る技術はあるものの、他の部分は余り得意ではなく、あの「お洒落」に疎い所があるのかもしれない。アクションの見せ方や不二子のファッション、音楽の使い方があまりパッとしない。資料を集めるか、詳しい人にアドバイスを貰った方がいいかも(アクションはカウボーイビバップの方が優れている)。
また、海外旅行に憧れの強かった当時。画像や音声を含め、外国の描写には資料を用いるなどしてかなり雰囲気を出していたのもよかった。
初アニメ化の当時は、まだ「アニメオタク」というものがおらず、幅広い感性を持った人たちがアニメにも携わっていた、というような感じもするし、「ルパン」ともなるとイメージはドラマと変わらない扱いだったのではないかとも思う。

ルパンが昔の方が良かったわけ。多分それは、単に制作側だけの問題ではないと思う。
特に良かったといわれているのが1st~2ndシリーズ。ルパンが漫画として連載され、後に30分アニメになった頃の60年代後半から70年代だ。あの頃の日本はまだとてもレトロで、素朴で垢抜けていなくて、ルパン達が現実とはかけ離れて「もの凄くおしゃれ」に見えた時代でもある。一般的な生活は「神田川」とか、「ど根性ガエル」あるいは「ちびまるこちゃん」のような感じ。だからルパン達に対して、大きな夢と憧れがあった。そういうものをルパン達が背負っていたとも言える。憧れの外国を飛び回り、車やファッションその他様々な手の届きそうにないステキなアイテムが盛りだくさんだし、構成やカットはまるでハリウッド映画のような要素があり、レコードがまだ少し高かった時代にJazzyな音楽を使う・・・ Free_hands_jigen       
だから尚更面白く見えたのではないだろうか。
今の日本はあの頃と比べたら大違い。一般庶民でも海外旅行に行ける。メディアの発達で流行はすぐにわかるし、ブランド物の店もいっぱいある。テレビでも沢山ハリウッド映画を見ることが出来る。「カッコいい」が身近にあるのだ。
それに、今更外国を真似たってとくにトレンディーではない。都心に行けば海外の都市とあまり変わらない風景も広がっている。あの頃と比べて生活風景がどんどん欧米化している。コンビニに行けばハリボやスニッカーズが簡単に手に入る。子供でも買える。昔はただのコーラですら「カッコいい飲み物」だったのに。子供のおやつは1個100円もしない駄菓子だったのに。
今となっては、逆に60、70年代のレトロさに人気が出るくらいだ。
70年代を生きたことのない私ですら、あの頃のレトロさに触れると、何だかほっとする。レトロな風景が大好きだし、古い漫画やアニメも大好き。駄菓子も大好き。日本では失われつつあるレトロな風景が好きなあまり、日本以外のアジアに目を向けてしまうほど。

時代はどんどん加速している。このことをインド医学とからめれば、ヴァータ(風の要素)がどんどん増えてゆくということ。実際、ヴァータのアンバランスが裏に潜んでいると思われる問題も増えている。特に子供達。
半世紀も生きていない私が、生まれる前の時代への懐古趣味を持っている。それぐらい今のテンポはキツい時がある。もちろん、昔の生活には戻れないのだけれど(ネットで仕事してるんだから)。
もしかすると、結構多くの人にとって、テンポの速さはあの頃がちょうどいいのかもしれない。
だからこそ、あの頃ものすごくカッコ良かったものが、今でもカッコよく感じられるのかもしれない。
あるいは、夢と憧れが一杯(=可能性が一杯。目指す方向もはっきり)な「あの頃」自体が魅力的であるが故に、ルパンは昔のものの方が好まれるのかもしれない。
今は、あの頃みたいに全員が夢中になれる「憧れ」が見つかりにくいから。

余談だが、60・70年代のお洒落さが全開のおバカ映画「オースティン・パワーズ」が人気なのもそのせい? ※私も大好きです。

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2006.09.09

ルパン三世~セブンデイズ・ラプソディ~

今年もやって来たルパンのTVスペシャル。ルパンは幼稚園の時に2ndシリーズの再放送でハマって以来のファンだ。
今回の見た感想は、最近見た作品の中ではまあまあの部類に入ると思う。前回よりは良かった。ギャグは笑えた(特に最後のブッシュを意識したやつとか、次元の“ズボンはどうした?”など)。作画もヒロインと主要キャラは○。
主要キャラを使ったギャグで笑わせるのは良いのだが、それぞれのキャラ本来の持ち味や良さが余り出ていないのは残念。彼らは本当はもっと「カッコいい」はずだから。カッコよさのなかに突如スコンとギャグが入るのが今までのルパンの醍醐味でもある(少なくとも、今までは)。メリハリが利いていないと、最後にヒロインを救い出すための連係プレーが生きてこない。流れに中途半端な感じが出てしまう。連携シーンを単独で見れば、結構カッコよく描かれてるはずだからもったいない。
そして、次元の葛藤の描写が薄い気もする。あそこをうまく描ければ、次元はもっとカッコよくなったはず。ファイヤー男(彼は悪役でなく存在そのものがギャグだったのか?)のシーンをそっちに回してもいいくらい。
また、ヒロインの父親だが、影が薄すぎる気がする。何故病気の妻をほっといてまでダイヤに打ち込んでいたのかがよくわからない。単なる悪党という扱いじゃない気がするのに、しばらく経って振り返ると、目立つ印象は「至近距離からショットガンで撃たれたのに生きてる(服の下にジャンプでも?)」という所だけだ。
悪役の描写もイマイチ足りない感じがする。
以上の理由からか、テンポが速いというよりは、「要所要所をいい加減に流してる」印象になってしまってもったいない。
とはいえ、全体的にあの独特のルパンらしさは出ているとは思う。銭型との追いかけっこやヒロインとの出会い方など。次元の過去もまあまあだった。競馬場から脱出するくだりや「氷」の使い方もいい。
最近のTVスペシャル、古くからのルパンファンには「昔の方が良かった」と言われることが多いが、そのことについても後で書くことにしよう。

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2006.07.05

ルパン三世に関する面白い動画

youtubeでルパン三世の動画がないかと探していたら、あるわあるわ。 その中で目に付いた面白いものをご紹介。ルパン好きなら知ってるものかもしれない。

Lupin III - Pilot Film (1971)
声が山田氏よりも前のヤツ。私が生まれるはるか前。

実写版ルパン(日本)
田中邦衛が・・・

海外のルパンマニアの作品(実写)1

海外のルパンマニアの作品(実写)2

海外のルパンマニアの作品3
実写版カリオストロ??

CG作品。次元がカッコイイ。

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2005.08.23

皇帝ペンギン

今日、フランスのドキュメンタリー映画「皇帝ペンギン」を見てきた。なかなか良かった。音楽も幻想的だ。
海の中の氷の映像や空の様子が美しかったし、ぴよぴよでふわふわの子ペンギンは可愛かった。もっと見ていたかったほど。よちよちと頭を振って難儀そうに歩く姿と違って、海の中のペンギンはすごい。飛んでいた。
何しろ南極だ。環境は厳しい。「全員ではなく、何匹か生き残ればいい」ということを前提にした生命の営み。そのことが凄く神秘的。
夏を涼むには最適の一本。

pengin

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2005.06.09

キャラバン

7日にBS2で映画「キャラバン」を鑑賞。見るのはこれが二度目。一度目はスクリーンで見た。
ヒマラヤの麓、ネパール側にあるチベット系民族の住むドルポ村では、収穫できる農作物が不十分なため、塩の交易をするキャラバンで暮らしが成り立っていた。そのキャラバンを率いる若者カルマとかつてのキャラバンリーダーだった主人公の祖父ティンレの世代交代の話し。
もうもうと上がる砂埃。峻厳な斜面。荷物を積んだ数え切れないヤク(牛の一種)たち。それを率いる赤い頭飾りをつけた男達。それが全部、チベットを旅した私の記憶を突っついていく。
ストーリーは何となく西洋人が作ったものと分かるのだが、映像もキャストも本物。ドルポ村も実在する。キャラバンは現地で本当に今でも行われており、ヒヤヒヤするような高山のがけっぷちを歩く。実際、命がけ。しかし命がけのキャラバンをしなければ、村は飢えてしまう。出演者は一人を除いてみな現地の人々。けれど、皆しゃべり方に素朴で豊かな表現力を持っている。厳しい大自然の中でしっかりと力強く生きている人々は老若男女問わずそれだけで美しく見える。映像はヒマラヤオールロケで、景色が怖いほど美しい。音楽も○。

なお、若いキャラバンリーダーのカルマはイケメンなので女性に人気だ。彼もチベット高原の遊牧民出身。


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2004.11.24

ハウルの動く城

とうとう見た。ワーナーマイカルのレディースデー万歳。
ストーリーはネタばれになるから言わない。
ともかく、何よりも、美しい。
「19世紀末の、欧州の近未来画家が思い描いた科学と魔法の混在する世界」という設定があるらしいが、やはり宮崎ワールド全開。絵も音楽もこれでもかとばかりに良質で(私もあんなガラス張りの温室でお茶したい)、空を飛ぶシーンは気持ちが良い。一時期流行った、座席が映像に合わせて動く3Dアトラクションを宮崎アニメでやったら多分私は乗る。あと、星の精霊(?)が手をつなぎ輪になって踊るシーン。久石譲の音楽とアニメーションが素晴らしい効果を出している。神秘的。確かに映画館で見てよかった。

ハウル達の暮らしを回想しながら映画館を出た後、にじみ出すように訪れた直感。

「私たちが認識する世界。それは毎日1人1人の意識が作り出した魔法でできている」

the_sun.jpg

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2004.11.18

江原啓之氏が母校の先輩だった

最近何かと注目されているスピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏。実は最近になって彼が母校の先輩であることを知る(彼が学生の頃私はまだ入学してないけど)。人文学部芸術学科だったそうだ。私が学生時代キャンパスで占いの露天を出していたときは、芸術学科の生徒がかなり訪れていた。アーティストタイプの人はインスピレーションを受け取ることが多いからか、神秘的なものに興味を持つことが多いのかもしれない。
その後、彼は神道を勉強するために別の大学に入ったらしい。
彼、インド医学ではカパ(水の要素)が強いのではないだろうか。受身で聞き上手だし、声もいい。カウンセラーには向いているのかもしれない。江原氏は本も良く売れている。地元の本屋にも彼の著書が置いてある。彼の登場で、ニューエイジがサブカルチャーからメインカルチャーになりつつあるのだろうか。
良く言われるように、「自分はどうやって生きればいいのか」、「自分は何故思うように上手く生きられないのか」、「自分の生きている世界は一体何なんだ」「自分が生きる意味は・・・」という疑問に対して理由を誰かに説明してもらいたい。そんな人達が増えたのかもしれない。江原氏のファンには、ちょうどバブル時代に若い時期を過ごした女性が多いそうだ。つい十数年ほど前まではジュリアナでふわふわ扇子を振り回していたらいつのまにか不景気になってしまった。そんな感じだろうか。自分が「こうだ」と思っていたこと、あるいは「こうだ」と植え付けられていた認識が必ずしも通用しなくなる。そんな変化が彼の本を有名にさせたのだろうか。

占いに来るお客さんには、自分の人生を自分で創るということがどう言うことか分からなくなってしまったお客さんも多い。無論、私とて自分の人生の創り方が分かっている、と言うつもりは無いけれど。
そんなふうに、妙な「生きにくさ」を持つ人が増えたことで、「スピリチュアル」と名がつく・つかないに限らずカウンセラーの需要が増したような気もする。同様に、占いを利用する人も増えた。ただ、カウンセラーも占い師も、必ずしも上に挙げた疑問の理由や答えを提供できるわけではないことを覚えておいて欲しい。「自分が答えを見つける」、「自分で理由を探し当てる(あるいは自分で理由付けする)」「自分の生き方を見つける」。占いやカウンセリングがこういったテーマを実現する為のツールになることはありこそすれ、占い・カウンセリングを受けさえすれば後は何もしなくてもテーマが実現できたり、答えが出てくるのだ、とドグマチックな発想に縋ることは危険だ。そういう発想は瞬く間に「自分の人生を自分で創造する」ことから自己を遠ざけてしまい、結局また同じ「生きにくさ」に逆戻りしてしまうから。
それに、もし私が悪い占い師だったら、そんな発想を逆手にとってプラスチックの印鑑を高値で売るようになるでしょうから。

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2004.09.19

ボウリング・フォー・コロンバイン

この前、マイケルムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」をTVでやっていたので見た。
アメリカの銃社会とそれが引き起こす問題についての分析をして、何かを掴もうとしていた。
コロンバイン高校で銃の乱射事件を起こした少年達がマリリン・マンソンというロックシンガーの曲を聞いていたことから、彼が批判されることがあったようだが、当の本人にインタビューしてみると、一番冷静に少年達の心理について客観的なコメントを出していた。「自分が彼らの教師であれば、ああ言った事件は起きなかっただろう」
とのこと。マリリン・マンソンが少年達の心理を理解していたからこそ、少年達は彼の音楽を好んで聞いていたのだろう。彼の音楽が少年達にとっての唯一の理解者だったのか・・・
日本同様、「暴力的な映画やゲームが悪いのだ」と言う人達はアメリカにもいっぱいいる。しかしアメリカでも暴力的な映画は昔からあった。ジョン・ウェインの頃からスクリーンの中でカウボーイ達は銃でインディアンを撃ちまくるし、インディアンは開拓者達に襲い掛かっていた。
「映画やゲームが悪い」と言う結論を出して全て終わりにしてしまうのは、問題の本質に近づくための分析にはなっていない。
また、カナダも銃が容易に手に入る社会でありながら、アメリカのような銃犯罪があまり起きていないことにもスポットを当て、「アメリカは他の国とどう違うのだろう?」と言う疑問を投げかける。その鍵を握るものとして、「サウスパーク」というカゲキでシュールなアニメによるアメリカの歴史の講義を映画に挿入している。
それによると、新教徒の弾圧から先住民との摩擦や20世紀の黒人暴動までを取り上げ、アメリカ人に歴史的な「自分が脅かされるのではないか」という不安感が存在していると考えている。
その不安感がアメリカ人に銃を手放すことが出来なくさせているのではないか、ということだ。歴史に責任転嫁するのはよくないが、無意識に何らかの影響はあたえているかも知れない。未来の歴史をどの様に作っていくのか。それが不安感を更に根強くさせるのか、薄れさせてゆくのかを決めていく。今のところ、銃は強さや力の象徴であり、アメリカ人の精神安定剤か・・・ ならば、それに頼らず精神を安定させるには?
この映画を見ると、問題の本質を知るための手探りの考察と分析はまだ始まったばかりだと感じる。

アメリカの歴史的に培われた「不安」と銃の関係を、占い師の私が少々胡散臭い方向で考えてみると、民族の集合意識に刷り込まれた不安感が世代を超えてアメリカ人の無意識に影響を与え、銃を手放せなくさせるだけでなく、他のことにも反映されている気がする。例えば、無意識に「やらなければこっちがやられる」という気分が存在することで攻撃的になったり、力に対して崇拝のような感情を持ったり、周りに力を見せ付ける傾向があるのはそのせいかもしれない。何でも1番になりたがるアメリカ。力を見せ付けることでプライドを守ろうとするアメリカ。決して負けられないアメリカ。不安感から来る攻撃性や力に対する崇拝、強いものを尊ぶ風潮は裏を返すと、弱いものには残酷になるときがある。「強くなければ虐げられ、脅かされてしまう」という無意識の前提は、「弱い者は虐げられ尊重されなくても仕方がない(=虐げて尊重しないのが普通)」ということにもなりかねない。もしそうなったら自分より弱いもの、劣ったものに対して低く見たり差別的になったり、力でねじ伏せようとする傾向が現れるのも無理はない。例えば、かつて自分達より弱い立場だった奴隷に対する様に。世代を超えた無意識の風潮は、奴隷の子孫(と同じ人種)に対しても同じような見方をさせる。
コロンバイン高校で銃の乱射をやらかした少年達は、いじめられっ子だったり、何らかの理由でつまはじきにされた、いわば弱い側に属する者達だったようだ。彼らは他人から馬鹿にされたり尊重されない、認められないことがあったのだろう。それだけではなく、彼ら自身もまた強さをもてはやす風潮から逃れられなかったようだ。だから、弱い側に属する自分達を自分でも認めることが出来ずに、他人に加えて自己からも貶められ、虐げられてしまったみたいだ。内からも外からも追い詰められ、思い余った結果、何としてでも強くなるために、強さを手に入れるために(自分を認めることが出来るようになるために)行動したらああなっちゃったのだろうか・・・
インド医学では、不安感はヴァータ(風)、強さへの崇拝や攻撃性はピッタ(火)のエネルギーのアンバランスだ。911以降、そのアンバランスは世界レベルで影響を与えている。人は無意識の更に奥の世界ではつながっているのだから・・・

(ピッタを静めるカパ(水)の属性を持つウォーターガーデニングが欧米で流行しているのは偶然かしら??)

ボウリング・フォー・コロンバイン(マイケルムーア)

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2004.07.30

ルパン三世

物心ついたときにはルパンのテレビアニメがとっくに始まっていた。当時幼い私はルパンが泥棒であることすら理解していなかったにもかかわらず、ルパン三世のアニメが大好きだった。アレを見て育ったといってもいい。信じられないテンポで30分以内に収められた奇想天外な展開、渋くてセクシーで個性的なキャラクターと声、ワンパターンなのに飽きさせない不思議さ。アニメが始まるともう画面に釘付けだった。何より、全体がとってもオシャレなのがたまらない。テレビアニメが始まったのがもう20年以上前なのに、今でもぜんぜん色あせないセンス。ウィットの効いたセリフ、カッコイイ音楽と絵の使い方、それらがすばらしく組み合わされてていた。そして子供心に、不二子ちゃんのファッションがセクシーなだけでなく、非常にオシャレで不二子ちゃんにしか着こなせない個性的なセンスを感じていた。ただ流行りモノを着ているのではなく、彼女の魅力を最大限に引き出す為の、彼女の為に用意された服だ。ルパンはそんな不二子ちゃんがお宝より大好き。不二子ちゃんはルパンがお宝の次に大好き。ルパンがお宝を盗んで銭形をだしぬく喜びと、不二子ちゃんがルパンをだしぬいて遊ぶ喜びはきっと似ている。二人とも、だしぬく相手が大好き。さらに不二子はだまされるルパンを見て、ルパンの自分への愛と奇妙な絆を密かに心ゆくまで味わっている(かもしれない)。そんな二人を見てあきれるクールな次元と、どこか純情でカワイイ五右衛門(次元は真夏に見ると暑苦しい)。
今回の金曜ロードショーで放送されたルパンのアニメは私から見ると全体的にテンポも遅く、おとなし目で物足りない。ウィットやオシャレにも不足していて、ただなんとなく雰囲気でキザっぽくさせているだけのようだ。夏休みの子供向けに、「ルパン三世」の特徴的なポイントをさらっとおさらいしているのかもしれない。不二子のファッションもただプロポーションのいい身体に流行りモノを着せただけで個性が少ない。お色気描写もなーんか中途半端だし。
「バッカモーン! そいつがルパンだー!!」というとっつぁんの叫びも聞けなかった。
ワンパターンでもいい。「ルパン三世」の魅力を最大限に出してほしかった。
あと、五右衛門と中国人が戦うシーン、2人の顔がなぜかモンキーパンチの絵ではなく、むしろなぜか
横 山 光 輝 ! ! (ジャーン ジャーン)

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2004.06.10

チャームド 魔女三姉妹

BS2で水曜1午後10時からやってるアメリカのドラマ「チャームド 魔女三姉妹」が意外とツボだ。
「ビバリーヒルズ青春白書」のキャストやってた女優シャナン・ド・ハーティもいた。
あらすじを言うと、アメリカの西海岸に住む代々「良い魔女」の家系に生まれた三姉妹が魔力に目覚め、その力を使って悪魔と戦ったり、「善き者を助ける」ために活躍する話。一話完結。
三姉妹の長女役だったシャナン・ド・ハーティがプロデューサーとケンカして台本が変更され、話の途中で長女は悪魔との戦いで死んだ事になってしまった。変わりに、三姉妹の母親の隠し子が魔力に目覚めて合流。もう一度「魔女三姉妹」になって大活躍中。経緯もストーリーも、基本的には下らないし、バカバカしい。が、なんか好き。安っぽいCG使ったりしてるところがまたイイ。なにより、キャラクターを含めドラマ全体が何となーくバカメリカン・テイストで好き(笑)。個人的には次女の旦那になった天使がツボ。


まあ、それとは別に、魔女と自称する人々は今でもいる。別にほうきに乗ったり毒りんご作ったりはしておらず、キリスト教以前のヨーロッパにあった土着の呪術や女神崇拝、自然崇拝、ハーブの知識などを現代風にアレンジして実践している。そういったものを全部ひっくるめて「ペイガニズム」と呼ばれており、実践してる人はペイガンと呼ぶ。その現代のペイガンの中に、「魔女」と自称する人がいるということ。ペイガニズムの一種でいわゆる「ウィッカ(魔女術)」なんてのをやってる人たちがそれ。ウィッカは「ウィッチクラフト」と言うこともある。ウィッカをやってる人を「ウィッカン」と呼び、チャームドの魔女のイメージもそこから来ているようだ。「良い魔女」である三姉妹が「悪魔」を倒すあたりがキリスト教ちっくだが、まあそこはあくまでドラマ。
もともとペイガニズムは異教、ペイガンは異教徒と言う意味。だから本来はケルトやギリシャの神々もペイガニズム(異教)。ちなみに、イースターやハロウィンなどは、もともとは異教徒(ペイガン)の祝祭だったのをキリスト教の祝祭ってことにしただけ。中世ヨーロッパで行われていた魔女狩りも、多分実際は言いがかりや、教会による異教徒弾圧の一つだったのだろう。異教徒弾圧というとユダヤ教徒やイスラム教徒をイメージするが、土着の信仰も取り締まり対象だった。あとはカバラの研究者や占い師なんかも時々引っかかったかもしれない。確かに、キリスト教以前の土着の呪術や信仰の中には、生贄を捧げたりするものもあったりしたので、それが後の魔女のイメージに繋がったらしい。

詳しく知りたい人はこちらが分かりやすいでしょう。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/my-art/library/pagan/pagtop.html

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2004.02.12

☆どっちの料理ショー

日本テレビ夜9時からの番組。「どっちの料理ショー」
今回はベリータルトとフォンダンショコラの対決。
やばい。マジやばい。つーかもうやばdhポ8yrpw!

どちらも理性と自我が失われそうなほど魅力的。
これで選択を迫られる俳優さんの演技も上手でなおさら胸が締め付けられるような気分。
気が付いたら夜だというのに紅茶とチョコを食べてしまった。
しかもチョコにブルーベリージャムをのっっっけて!

意外と合うわ。 ジャム少なめにすると。


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2004.01.04

占い師から見た「アメリ」

テレビで「アメリ」と言う映画を見た。
内気に育ったために、恥ずかしくて一目ぼれした相手と面と向かって喋れない、夢見がちでちょっぴりエキセントリックな女の子のお話。
ある一目ぼれした男性の落し物を届けるために、面と向かって相手 に話し掛けられないアメリはあるすごい作戦を考え付く。その行動力は「本当に内気なのかよ!?」とツッコめるほど。その他、善意から様々な笑えるイタズラをやらかす。ナレーションもいい。
内気であってもアイデアを実行する気力と行動力を駆使しているので、大切な事・肝心な「伝えるべきこと」に気付いたアメリの恋は悲しい結末にはならない。

相手に想いを寄せてはいてるけれど、自分の恋に対して何も出来ず、かといって相手と結ばれることをあきらめられず。やがては自分の想いに気付いて向こうから自分のもとへ来てくれない相手を恨み続ける、というケースを占いでもしばしば見かける。「アメリ」は内気だけどそういうケースとはベクトルが違っているので、むしろそのテの悩みを持つタイプの人々を元気付けてくれるキャラクターかも知れない。
「私は何もしないで向こうから私を選んでくれるためにはどうすればいい?」という質問を占いで何度かもちかけられるけれど、全く何もしなければ自分と言う「個人」が存在している事さえ相手は気付かないことを暗示するカードがよく出る。多分相手にとって自分が「ある特定の個人」じゃなくて「その他大勢の一人」になっているんだろう。「自分が何者か。どんな考えを持っているのか」相手は知っているだろうか? 相手が自分の事を意外と知らない、ということがよくある。さっきの質問を占うとかなりの確立で「情報不足」を示すカード達が出る(一目惚れでまだほとんど喋ったことの無い相手や、いつか来ると信じている運命の誰かについて占った場合はいうまでもない)。人間は知らない人より知っている人の方が親しみを感じやすいし、徐々に自分について知ってもらった方が、相手もあなたについて考えたり判断しやすい。デパートの迷子だって、保護者が「ウチの子かも」と判断出来るように、館内放送ではデパートに来た交通手段、住んでいる駅、年齢、服装など、その子の特徴がある程度流される。
恋を叶えるには気力や勇気がいる。まずは何かをする気力をつけることからはじめよう。まず準備として放送マイクに電源を入れる気力。次にマイクに向かって情報を表現・伝達する気力。
「そんな悠長な事してたら相手は別の人とくっ付いてしまって間に合わないかもしれない」?
その恋に、何もしないでただ相手が来るのをいつとも知れず待ち続ける時間があれば、待ってる間で何かする気力をつけるヒマもある。大抵は。

「アメリ」はアメリ役の女優さんが「ミスタービーン」のローワン・アトキンソンとちょっと似てる。ビーンがパリに住む内気な女の子に生まれ変わったらアメリになるかもしれない。もちろんローワン・アトキンソンよりずっと可愛い。
カットの都合で、昔予告編で観た「うつ伏せで階段すべり」が観られなかったのは少し残念。

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