2009.10.24

投影すれば、無機物だってスクリーンになる

最近、元素の擬人化「国」を擬人化したアニメ「駅」を擬人化したアニメ等「無機物の擬人化」が一部で人気なようだ。「元素」「国」「駅」といった無機物を擬人化したキャラクターに、他のアニメや漫画のキャラ同様、「萌え」や恋愛感情を抱く人もいるだろう。

昔から男性が車にアニマ(理想の女性像・自分の自我に統合したい己の女性的側面)を投影することがあるというのは有名な話。以前、車に欲情して全裸で逮捕されたイギリス人のニュースを本当に見たことがある。女性だって無機物にアニムス(アニマの男性版)を投影する時代が来てもおかしくは無い。 「結婚しなければ」という一種の縛り的風潮がなくなってきたことも一つの背景か?

恋というものが己の理想イメージや願望を相手に投影することで発生する現象であるならば、人類は「擬人化」という能力で投影対象の範囲を人間性の欠片もないような無機物の領域にまで伸ばせるくらい進化したのかもしれない。むしろ、自我や独立した意思が無い分、勝手に動いてイメージを壊されないから人間をスクリーンにするより楽である。

国を擬人化したアニメのキャラ解釈でファン同士が対立しネットの中で紛争が勃発したり、アニメキャラと正式な婚姻届が出せるように国に求めたり、キャラ設定が己の理想イメージに反したという理由で作者にリアルで復讐することさえ出来るほど人間の精神的恋愛スキルは斜め上に向かって進化し続けている。
以前、腐女子同士が「もしもエッフェル塔と東京タワーが愛し合ったらどんなカップルになるか」という話題で盛り上がる様子を知ったフランス人がおびえていたという話を聞いたこともある(笑)。 実在の駅が擬人化したキャラが生まれたことで、ヤンデレ系のファンが 「この腐れドアがあああ!私と六本木君の間を邪魔するかあああ!!」みたいな気分になることも起こりうるのだろうか? 「貴様は私の新宿サマをゲロで無残に汚した。死ね!」とか?

三次元に興味のない人、人でない相手に恋をすることで満たされるケースが増えてきたということは、人類はアニマやアニムスという「抑圧されていたもう一人の自分」と対話することをより一層望むようになったということかもしれない。恋物語でよくある「ずっとあなたを待っていた」はスクリーンに投影したアニマやアニムスに向けての言葉なのだろうか?
集合無意識レベルで内的対話を望む傾向・・・不安と神経症の時代(by宮崎駿)には、大きな意味を持っている現象かもしれない。

「人類は増えすぎた。環境は悪化の一途を辿り、地球は悲鳴をあげている。人類よ、ストライクゾーンの狭き檻から抜け出すがいい」
・・・そういう宗教が生まれたらどうしよう(笑)

「駅」がネタになるなら、アサリ(無脊椎動物)だってネタになるかもしれない。・・・ちょっとやってみよう。

アサリ「君のことが好きだから、・・・水管・・・こんなに長くなっちゃった・・・ あと少し・・・あと少しで君にとどくのに・・・! 死ぬ時は君に触れていたい。君のそばで逝けるなら、ボンゴレにされる運命も怖くない。とどけ・・・とどけ・・・出会う前から君が好きだったんだ・・・!」

Asari

・・・萌える?


連想と投影の魔力(恋愛編)
恋人は、誰よりもあなたのそばに?

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2009.06.18

ヘタリア

「ヘタリア」という国を擬人化した漫画が人気になっているようだ。アニメも無料配信されている。興味を惹かれて私も漫画やアニメを見たところ、面白かった。日本人の視点から見たステレオタイプな各国のイメージからキャラの個性や言動が設定してあり、一種のエスニックジョークと「キャラ萌え」が合体したような感じだろうか。どのキャラもよく出来ていて、不思議な面白可愛さを感じた。日本だけではなく、海外にもファンが多い様だ(物議をかもした韓国にもファンがいるとのこと)。
また、この「ヘタリア」は一貫した長いストーリーがあるわけではなく、世界史や各国の文化を元にしたギャグ仕立てなので、同人作家が割と楽に二次創作できるところも人気の一つかもしれない。自由に好きな時代や場所を選んでキャラを動かすことが出来る。実際、ファンサイトや動画サイトで見かける二次創作がこれまた秀逸。ある意味、「ヘタリア」は二次創作の可能性を大きく広げるための作品なのかもしれない。「ヘタリア」という共通の元型(アーキタイプ)があり、それが個人レベルに降りていくにつれその人の個性や事情に合わせて様々な姿で動いていく。そうやって「ヘタリア」は深みを増し、拡大・膨張を続ける一種の文化的生物ようにも思える(多分ヘタリアに限ったことではないが)。
そして、「ヘタリア」自体が我々の住む「世界」という壮大な物語の二次創作作品なのかもしれない。

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2008.12.09

『少女革命ウテナ』とタロット

今回はある作品を知らないと全く何のことか分からない記事で恐縮だが、あるアニメ作品についてマニアックな記事を書いてみる。
「少女革命ウテナ」という話題になったアニメ作品がある。いかにも少女漫画的なビジュアルで宝塚のような雰囲気を持ちながら、単なる「少女趣味を満足させる娯楽アニメ」にとどまらない成長物語的要素と謎めいた演出がなされていることで話題を呼び、ファンを増やしたといわれている。
この作品、タロットを扱う者から見るといくつかの重要な要素にタロット的なメタファーを感じさせることがある。どこがどのようにタロット的に感じるかということを説明するために、独自に作品に出てくるものをそれぞれタロットカードに当てはめてみた。
製作者がタロットを意識していたかどうかは不明。とりあえずストーリー的・キャラクター的にあてはめられそうな部分を独断と偏見で。

※表の見方:
作品に出てくるもの・・・・・当てはめたカード
カードの意味、〈アニメと絡めた解説〉

「永遠」・・・・棒の4
平安 安心 安定 安穏 安息(揺り籠の中の様な)ひとまずの休息 現実逃避 シェルター(しかし長過ぎる安穏と安定は無聊と行き詰まりを生む 行き詰まりは葛藤へ続く)
〈『永遠』はかつてデュエリスト達に精神的な安心感・安息感を与えたものだが、その執着を手放し新たな可能性をさぐることが各人のテーマであり真実の希望らしい〉
〈揺り籠=雛鳥にとっての卵の殻、TV版でウテナやアンシーが入っていた棺〉

生徒会のデュエリスト達・・・・棒の5
切磋琢磨 競合 葛藤 摩擦 プレッシャー 「どれが相応しいか」の結論が未だ出ていない状態 会議なら議論展開中 〈デュエリスト達が抱える葛藤とそれゆえに行われる決闘〉

5人のデュエリスト+ウテナ参入・・・・棒の6
「どれが相応しいか」の結論が出た状態。仲間の援助 プレッシャーに打ち勝つ 葛藤の終結 一つの結論・目的に向かう状態 ライバル達に友情が芽生え協力者になる 会議なら新たなアイデアが出て満場一致の採決 
〈劇場版ではラストで生徒会のデュエリスト達数人が主人公の目的に賛同し外の世界への脱出に協力する 彼らもウテナ同様、『いつか永遠』への執着から抜け出し新たな可能性を切り開くために外の世界へ向かう希望を持つ〉
 
学園・・・・・・世界
(あるステージにおける)完結 完了 完成 達成 ゴール (しかしどれも新たな次のステージへの始まりを秘めたもの) 暫定的な終着点 とりあえずの一括り
〈世界のカードは占星術では『秩序』と共に『抑圧』という意味を持つ土星のカード。この作品では『抑圧』の側面が濃く描かれている〉〈ゴールの先は存在しない、というのはただの固定観念で、『ゴール』の先にも世界は広がっている 固定観念は心理的抑圧を生む〉
〈土星の向こうには『革命』という意味を持つ天王星。ゆえに『世界の果て』というキーワードは意味深・・・内なる/外なるを問わず、宇宙は膨張し続け、世界は広がり続ける〉

プラネタリウム(逆さまの城/決闘広場)・・・・・塔(崩壊の塔)
従来の秩序の崩壊 思い込み・固定観念の崩壊 傲慢 (自己)欺瞞 欺瞞(欠陥)ゆえの破綻 幻滅 間違った前提の上に建てられたものは崩壊する 砂上の楼閣 塔の下敷きになっていたものが塔の崩壊で姿を現す 自ら建てた塔のてっぺんで「お山の大将」をしていた者の失墜〈プラネタリウムは塔の最上階〉〈タロットでは塔の次に希望と言う意味の『星』のカードがあるが、星をスクリーンに投影するプラネタリウムはさしずめ『にせの希望』で『希望と思い込んだ状態』〉

車(TV版・劇場版共通)・・・・戦車
自立(独立) 主体性 強い意志(気高さに通じる) 人生の旅路をゆく 己の(人生の)道を切り開く 意識と無意識/理性と本能を一つにして手綱を自在に操る〈=劇場版でのアンシーの巧みなドライブテクニック〉

ウテナとアンシーの関係・・・・恋人
パートナーシップ 心が通じ合う 望む道の選択 自分の知らなかった心の中のもう一人の自分(女性の場合はアニムスとして夢に現れるケース多い)との対話顕在意識と無意識とのつながり 自分の中の「統合されたいもう一方の抑圧された部分」や「抑圧された真実の希望」が無自覚に相手へ投影された様子、相手がそのシンボルになっている様子〈ウテナとアンシーの関係に対し、他のデュエリストと薔薇の花嫁の関係は、各人がアンシーに「偽りの希望(=永遠)」を投影する関係〉〈少なくとも劇場版では、ウテナとアンシーは同一人物の両側面で、ウテナはアンシーという少女の抑圧された男性的側面だったようだ〉
※アニムス:理想の男性像(王子様など)又は自分が何らかのこだわりを持つ男性像 自分の抑圧された部分のシンボルになることが多い

作品のテーマとしては、「無意識領域に抑圧された自我(個性)の解放」といったところか。自我と個性の獲得は、そのまま自分の個性が持つ人生の喜びと可能性、主体性、自尊心の獲得につながる。ビョークの歌で言えば「デクレア・インデペンデンス」だ。

この作品でタロットカードを作ったら売れたかもしれない・・・


容姿・劣等感・個性
『崖の上のポニョ』とカタルシス
結婚相手より生き方をさがせ?
デクレア・インデペンデンス

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2008.08.21

『崖の上のポニョ』とカタルシス

http://aya-shumi.cocolog-nifty.com/heya/2008/12/post-0a93.html『崖の上のポニョ』を見た。ポニョの樹木希林とトトロやメイを掛け合わせた魚顔がめちゃくちゃ可愛いと思うのは私だけだろうか? そして宗介は本当に「よく出来た子」だ。私なんか足元にも及ばない。絵は相変わらず美しい。
ストーリーやキャラクターについての感想は他のブログでいくらでも書かれているだろうから、メインは心理学的、象徴的な視点による『崖の上のポニョ』の個人的解釈にしようと思う。(読者の脱落率90%)
まず、この作品のテーマは他のいくつかの宮崎作品同様、「カタルシス」だろう。宮崎監督曰く、この作品で「初源なるものをためらいなく描いて、不安と神経症の時代に立ち向かいたい」という意図があったそうだ。
ということだから、遠慮なく心理学的なシンボルを用いてこの作品を説明してみる。まず「水」は人の精神発達・精神活動のスタート地点である無意識の象徴。そしてそこにとけ込んだものの象徴でもある。そして水が最終的に集まる場所、「海」は集合無意識の象徴。そして「魚」は無意識の領域に住み、普段は水の外へ出ない(意識の領域へは出てこない)存在。しかし確かにそこに存在し、稀に跳ね上って一瞬水面の上(=地上)に飛び出す。そしてある特別な条件がそろった時、水の外の世界から抜け出し、一瞬ではなくずっと地上世界(顕在意識の領域)の住人になる。
無意識にいるはずのものが意識の領域に浮上し、そこにとどまり続ける。それはどんな条件の時に起きるかと言うと、
「意識化すべきものが何らかの理由で無意識領域に強く抑圧されていて、そのために心が緊張し行き詰っている時」。
「解放・浄化すべき鬱屈が何らかの理由で無意識領域に閉じ込められ抑圧され、鬱屈の限界が来ている時」。
その条件下におかれた時、心は抑圧された部分を本能的に「外へ出したい」とそれこそ心から切に思うようになる。そして「抑圧する側」との間に葛藤(戦い)がはじまる。本能からの・心からの思いは強いエネルギーを秘めているので、抑圧側との戦いはとても激しくなる。そして大概は抑圧側の隙を衝いて勝利する(ある宗教はそれを『ハルマゲドン』と呼んだかも)。そのエネルギーは抑圧や障害を乗り越える力になる。
①と②はそのまんま人が神経症に陥る時の心理的環境といえる。「自分の何かを必要以上に押し殺している」時、神経症は起こりやすいそうだ。そうなったら確かに不安だろう。けれどもそれは、「行き詰まりの打開」「鬱屈の浄化」「抑圧からの解放」(=カタルシス)のチャンスでもあるわけだ。不安の正体を知れば、怖くない。
重要なことは、「抑圧してきた意識化すべきものの真相と向き合い、拒絶せず受け入れること」。すると神経症は回復に向かう。その過程で、時には無意識にとけこんだものを出す機能のある「涙」があふれ出すかもしれない(あれも海水みたいなものだ)。また、「意識化すべきもの」は時にアニマ/アニムス(理想の異性像)の姿で夢の中に現れる(宮崎監督のアニマは少女の姿をしているのだろう)。

さて、以上のことを『崖の上のポニョ』に照応させると、「抑圧する側」はポニョを元の海へと一旦は連れ帰ったフジモト。無意識領域、それも集合レベルの無意識領域からの脱出を心から望んでいる「意識化すべきもの」はポニョだ。ポニョは抑圧の隙を衝いて浮上を決意。するとポニョを乗せた無意識(=水)が地上世界(顕在意識領域)に向かっていっきに膨れ上がり、溢れ出す。地上世界(街)は溢れ出した水で覆われる。
そして地上世界へ浮上してきたポニョという「意識化すべきもの」に気づき、その真の姿を知り受け入れた地上世界の住人、宗介・・・例え己の醜いとされる部分であっても、押し殺さずに受け入れ認めることは、一種の愛。
この「抑圧の隙を衝いて無意識領域から地上世界へ浮上し移住すること」は主体となるポニョ一人の力で行われたものではない。まず宗介の愛、同じ海に住む無数の妹達の協力、ポニョの母親である「海の女神」の説得と後押し、そしてとうとう納得した抑圧側のフジモトが「作戦」を実行したからこそ成功したものでもある。しかも、恐らく集合無意識の象徴である「海の女神」は最初から何が起きるか予想できていたのだろう。ポニョが地上の迷惑を考えず津波と共に猪突猛進に宗介の元を目指したのは、それがポニョのみならず集合無意識全体の意志、すなわち不安と神経症を抱えた時代の意志だったから。その証拠に、誰も津波を嘆かず、むしろすんなり状況を受け入れている。

この作品は、「不安と神経症の時代に立ち向う」ための「集合無意識レベルからのカタルシス」を描いているようだ。
無意識世界を象徴的に描いたものだけに、ストーリーは睡眠時の「夢」のように論理的整合性が怪しい。だから観客の意識を通り過ぎて無意識にダイレクトに伝わるかも。「地味で分かりにくい作品なのになぜか心に残る」と言われているのはそのせいだろうか。もしそうなら、宮崎監督のやったことはある種の呪術だ。
抑圧は、単なる個人の無意識領域にとどまらず、集合無意識にある。多くの人が意識化すべきものを無意識領域に抑圧していることで、個人の問題を越えた集合無意識レベルでの抑圧になっているのかも知れない。
彼の呪術が本格的に成功すれば、カタルシスは成し遂げられこの時代の神経症と不安は癒される。
海(=生命の源)に例えられる集合無意識は、時代の特徴や時代の潮流(意識の世界における集団レベルでの生命活動)を作る源と言われている。この「不安と神経症の時代」、人々が抑圧の元から解放し意識化すべきものとは一体なんだろう? 向き合う準備は、出来ているか?

ナンバープレート「333」の意味?
実は、占い師の目から見て個人的に非常に面白いと感じた偶然(必然?)がある。劇中に出てくる宗助とポニョとリサの3人が乗る車のナンバープレートが「333」。「3」はヒンドゥー数霊術で木星の数字で、「膨張・発散・解放」と言う意味があるのだ。それが3つ並んでいる。まさしく「解放」の三位一体。3人はそれぞれ「カタルシス(抑圧からの解放)」において役割を担っている。カタルシスを「発生させる者(=ポニョ)」「一旦受け入れて次の段階への態勢を整える者(リサ)」「地上での居場所を引き受けカタルシスを終わらせる者(宗介)」。
しかもポニョがフジモトによるDNAの抑圧を破り人間になりかけるシーンでは手足が3本指だった。もしや宮崎監督は、ヒンドゥー数霊術を知っておられるのだろうか? (数秘術の中では結構マニアックな占いなんだけどな・・・)
(もっとオカルトマニアックな解釈がお望みなら、アダム・カドモンの暗示が隠れてるとでも言っておこうか?)

※以下ネタバレ含む
作品の中で、フジモト自身もまた世界に行き詰まりを感じ、それを打開するために海の時代を逆行させて地上の支配者にする計画を作った。その準備として魔法の源でもある『命の水』をせっせと大事に貯蔵していた。しかし、ポニョが脱走中に全部飲んじゃった&海にばらまいちゃったということは、彼の計画では行き詰まりを打開できないのだろう。彼の「行き詰まり打開手段」は「解放」ではなく「抑圧」。カタルシスの逆だったから。結局、抑圧を抜け出したポニョが海の様子を変えて行き詰まりの打開をやってのけた(海の女神曰く『素敵な海ね』)。そしてポニョの始めたカタルシスの終了作業をしたのが、ポニョを真の姿から愛し身元引受人になった宗介。
己を抑圧し行き詰った世界の神経症の終焉と再生。それが二人の世界の救い方。
タロットなら20番の『審判』。

(より小規模で思春期の少女達に起こりうるカタルシスを描いた有名なアニメ作品が「少女革命ウテナ」かもしれない・・・)

予言とカタルシス願望 エコロジーと終末論 自分の中の暴れ馬 短所含めてありのままの自分を愛して True Colors ヘルメス伝説と進化の記憶 「少女革命ウテナ」とタロット

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2008.07.26

「ルパン三世 sweet lost night ~魔法のランプは悪夢の予感~」

前回よりもよかった。小ネタがいい。ドリューとその兄の顔がちゃんと中東系に描かれていた。銭型の扱いはどこか懐かしいギャグセンスを感じさせる。ルパンとドリューの関係があまり描き込まれていなくて切なげなラストシーンが生きないのが残念。全体的にインパクトが薄い。間のとり方が悪いのか、声優の問題なのか、感情移入がしにくかった。ストーリーも詰めが甘く、イマイチ分かりにくい。クライマックスシーンもあまり緊迫した雰囲気を感じなかった。あと、最後の方、色使いが・・・w

「人間らしい心を取り除き血も涙もない殺人マシーンを大量に作る」という野望をもった悪役ガーリック大佐(印象薄い)が、脳をいじくって「戦争をしない清らかな心」を広めようとするアイヒマン博士(ドリュー兄)の作った『ランプ』技術を狙うという設定はまあありがち。その設定をもう少しいじると面白いかもしれない。例えば悪役が軍需産業の黒幕で、その日ごろの悪行が「世界各地でテロ、貧困、食糧難、指導者の暗殺などを操作し、人々の間に欲と疑いと憎しみを煽り、戦争の火種を作って常に世界のどこかで紛争を起こすこと」。そして『ランプ』を狙った悪の企みが「そんな戦争ゲームの更なる効率化のために、『ランプ』の技術で世界中の人間の脳から人らしい心や感情を抜き取り、殺人をいとわぬ冷酷な人間だらけにしたい」。とかにしておく。
そして、『ランプ』は研究基地(色が悪趣味)にある機械に接続すると、一度に世界中の人間の脳を同時処理できてしまう、という設定にしておく。その場合、戦争を憎む博士は悪役にあえて人々から人間らしい感情を取り除かせてやるかもしれない。なぜなら、人間から「人間らしい心」や「感情」を取り除いてしまえば、欲も憎しみも失った人間は戦争の意欲を持たなくなる。結果的に悪役の企みは潰えるわけだ。感情のない人間をいくら煽ったって無駄だから。
「人間らしい心がないと戦争って出来ないんだってサ~♪」一度はランプの技術で大量の脳の操作に成功した悪役にルパンが皮肉っぽく言ってみたりするといいかも。で、不二子と一緒にどさくさにまぎれて『ランプ』を盗んだルパンが結局悪役のやった脳処理をボタン一つで元に戻しちゃう。理由は「感情が無きゃ世界中のカワイコちゃん達が俺に恋出来なくなっちゃうも~ん」。

・・・失礼。妄想が暴走した。次回は内容もさることながら、制作時間の余裕ともう少し多めの予算が降りることにも期待したい。

ルパン三世の今と昔

かっこいい動画発見
ルパン三世×カウボーイビバップ
【MAD】ルパン三世のテーマ【名シーン詰め合わせ】

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2007.09.12

デスノート+ホットペッパー

(右クリックで別窓)

その1

その2

飲食中の閲覧はおすすめしない。多分噴くから。

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2006.10.26

攻殻機動隊とオカルトの世界

※とっても非科学的な話です。
『攻殻機動隊』。昔大学の授業でこの作品群の存在を知った。そして最近になってテレビシリーズをやっと見た。最新作ではないものの、今見ても面白かった。気に入った登場人物はトグサとバトーかな。タチコマがアニメ声というのは以外だった。
このアニメ、マトリックスの監督が影響受けたというのがよくわかった。マトリックス同様、オカルトやグノーシスなど形而上学的なテーマや、ユング心理学のような要素も ある。
この「攻殻機動隊」という作品の中にも、そのうち占い師とか霊能者みたいなキャラクターを登場させたら面白いんじゃないかと思う。占い、特に易やタロットなど偶然性に頼る占いは、見た目はアナログだが実は非常にデジタルな頭の使い方をしているからだ。
全く電脳化していないにもかかわらず、占い師達は昔から人間の集合無意識の領域(サーバーのソース領域またはデータベース)や、その人が自分の現実を作る時の運勢というデータがしまわれている領域(ネットで言えば「個人HPのソース領域」)にアクセスし、相談内容をキーワードにした検索作業をして来た。その精度は占い師の腕次第。
そして検索結果は、カードや筮竹に反映される。さらに検索結果を分析して、相談内容のアドバイスとして何がふさわしいかを、解釈する。解釈も占い師の腕次第。
はたから見れば、「偶然出た結果が的を得ている」「シンクロニシティーだ」と見える。 何のことはない、人工的にシンクロニシティーを起こしているだけ。
丁度Googleのキーワード検索で「自分の調べたいことが検索結果の上位に入っている」のと同じ。 Googleがあなたの心を読んでわざわざ気を利かせたわけでも、超能力じみた力を持っているわけでもない。システムがそういう仕組みになっているだけ。占いも同じ。運勢や無意識の深い領域が便宜上そういう仕組みになってるだけ。
生存環境が厳しかった原始の時代、人間は生存のためにデジタルな頭の使い方をよくやっていた。
「今日はあっちに行けば獲物と出会いそうだ」「このキノコはおいしそうに見えるのに不吉」「何だかこの場所は危ない気がする」「一週間以内に雨が降る(止む)」などなど、無意識の領域で場所やモノの情報を検索し、その中に有効な情報があれば予感や直感といった、個人のゴーストの中でも深部の無意識領域から来る機能で認識する。昔はそんなことが得意な人達はシャーマンになったりしもしていた。
シャーマンの中には俗に古くから「幽霊」と呼ばれる強烈な印象や感情(または強い意志?)のために、死してなお意識(=ゴースト)や、或いは意識のデータの一部だけがその場に焼き付けられて残っている/さまよっている状態の者を感じ取れる人もいただろう。ゴーストを使って他人の意識をジャックする(乗り移らせる・祟らせる)ような黒魔術師だっていたかもしれない。自分が自由に身体を抜け出してゴーストとして活動できるシャーマンだっていたんじゃないかと思う。ゴーストになれば、幽体離脱も、集合無意識へのダイブも、お手の物。大昔なら、草薙素子はアマゾネスにして部族を支えるシャーマンだ(95年の『攻殻機動隊』のエンディングは日本のシャーマニズムである神道の祝詞が含まれている)。
もう少し時代が下ると、地位も財産も全て捨てて、一歩間違えれば攻性防壁のように脳神経が焼けたり廃人になるかもしれないほど危険で難しい修行(ある種のヨガなど。)を積んでまでデジタルな能力を高めようとるする人々も出てくる。
・・・・・・しかし今は、人間が生存のためにそんな原始的な能力を使わなくて済むよう便利な科学を発達させてきた時代なので、その能力を使ってる生き物の大部分は動物達くらいなものだ。多くの人間達はその力の使い方を忘れている。だからその力でアクセスできる領域が身近じゃない。だけどやっぱり興味があるし、面白そうにも見える今日この頃・・・・・・

例え人間が電脳化された時代でも、他人の意識をジャック出来る時代でも、ゴースト深部に鎮座する個人的無意識の、そのまた向こうに鎮座まします集合無意識を検索する方法は、皆知らないままなんだろうか?

SSSのオープニング、気に入った。

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2006.09.10

ルパン三世の今と昔

よく「ルパンは昔の方がよかった」という話を聞く。
まず制作側の原因を邪推。
ルパンの根底に流れているのは「お洒落」。アクションさえもお洒落。現在のTVスペシャルは、制作側にいわゆる「アニメオタク」が増える傾向にあり、「アニメ画像」を作る技術はあるものの、他の部分は余り得意ではなく、あの「お洒落」に疎い所があるのかもしれない。アクションの見せ方や不二子のファッション、音楽の使い方があまりパッとしない。資料を集めるか、詳しい人にアドバイスを貰った方がいいかも(アクションはカウボーイビバップの方が優れている)。
また、海外旅行に憧れの強かった当時。画像や音声を含め、外国の描写には資料を用いるなどしてかなり雰囲気を出していたのもよかった。
初アニメ化の当時は、まだ「アニメオタク」というものがおらず、幅広い感性を持った人たちがアニメにも携わっていた、というような感じもするし、「ルパン」ともなるとイメージはドラマと変わらない扱いだったのではないかとも思う。

ルパンが昔の方が良かったわけ。多分それは、単に制作側だけの問題ではないと思う。
特に良かったといわれているのが1st~2ndシリーズ。ルパンが漫画として連載され、後に30分アニメになった頃の60年代後半から70年代だ。あの頃の日本はまだとてもレトロで、素朴で垢抜けていなくて、ルパン達が現実とはかけ離れて「もの凄くおしゃれ」に見えた時代でもある。一般的な生活は「神田川」とか、「ど根性ガエル」あるいは「ちびまるこちゃん」のような感じ。だからルパン達に対して、大きな夢と憧れがあった。そういうものをルパン達が背負っていたとも言える。憧れの外国を飛び回り、車やファッションその他様々な手の届きそうにないステキなアイテムが盛りだくさんだし、構成やカットはまるでハリウッド映画のような要素があり、レコードがまだ少し高かった時代にJazzyな音楽を使う・・・ Free_hands_jigen       
だから尚更面白く見えたのではないだろうか。
今の日本はあの頃と比べたら大違い。一般庶民でも海外旅行に行ける。メディアの発達で流行はすぐにわかるし、ブランド物の店もいっぱいある。テレビでも沢山ハリウッド映画を見ることが出来る。「カッコいい」が身近にあるのだ。
それに、今更外国を真似たってとくにトレンディーではない。都心に行けば海外の都市とあまり変わらない風景も広がっている。あの頃と比べて生活風景がどんどん欧米化している。コンビニに行けばハリボやスニッカーズが簡単に手に入る。子供でも買える。昔はただのコーラですら「カッコいい飲み物」だったのに。子供のおやつは1個100円もしない駄菓子だったのに。
今となっては、逆に60、70年代のレトロさに人気が出るくらいだ。
70年代を生きたことのない私ですら、あの頃のレトロさに触れると、何だかほっとする。レトロな風景が大好きだし、古い漫画やアニメも大好き。駄菓子も大好き。日本では失われつつあるレトロな風景が好きなあまり、日本以外のアジアに目を向けてしまうほど。

時代はどんどん加速している。このことをインド医学とからめれば、ヴァータ(風の要素)がどんどん増えてゆくということ。実際、ヴァータのアンバランスが裏に潜んでいると思われる問題も増えている。特に子供達。
半世紀も生きていない私が、生まれる前の時代への懐古趣味を持っている。それぐらい今のテンポはキツい時がある。もちろん、昔の生活には戻れないのだけれど(ネットで仕事してるんだから)。
もしかすると、結構多くの人にとって、テンポの速さはあの頃がちょうどいいのかもしれない。
だからこそ、あの頃ものすごくカッコ良かったものが、今でもカッコよく感じられるのかもしれない。
あるいは、夢と憧れが一杯(=可能性が一杯。目指す方向もはっきり)な「あの頃」自体が魅力的であるが故に、ルパンは昔のものの方が好まれるのかもしれない。
今は、あの頃みたいに全員が夢中になれる「憧れ」が見つかりにくいから。

余談だが、60・70年代のお洒落さが全開のおバカ映画「オースティン・パワーズ」が人気なのもそのせい? ※私も大好きです。

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2006.09.09

ルパン三世~セブンデイズ・ラプソディ~

今年もやって来たルパンのTVスペシャル。ルパンは幼稚園の時に2ndシリーズの再放送でハマって以来のファンだ。
今回の見た感想は、最近見た作品の中ではまあまあの部類に入ると思う。前回よりは良かった。ギャグは笑えた(特に最後のブッシュを意識したやつとか、次元の“ズボンはどうした?”など)。作画もヒロインと主要キャラは○。
主要キャラを使ったギャグで笑わせるのは良いのだが、それぞれのキャラ本来の持ち味や良さが余り出ていないのは残念。彼らは本当はもっと「カッコいい」はずだから。カッコよさのなかに突如スコンとギャグが入るのが今までのルパンの醍醐味でもある(少なくとも、今までは)。メリハリが利いていないと、最後にヒロインを救い出すための連係プレーが生きてこない。流れに中途半端な感じが出てしまう。連携シーンを単独で見れば、結構カッコよく描かれてるはずだからもったいない。
そして、次元の葛藤の描写が薄い気もする。あそこをうまく描ければ、次元はもっとカッコよくなったはず。ファイヤー男(彼は悪役でなく存在そのものがギャグだったのか?)のシーンをそっちに回してもいいくらい。
また、ヒロインの父親だが、影が薄すぎる気がする。何故病気の妻をほっといてまでダイヤに打ち込んでいたのかがよくわからない。単なる悪党という扱いじゃない気がするのに、しばらく経って振り返ると、目立つ印象は「至近距離からショットガンで撃たれたのに生きてる(服の下にジャンプでも?)」という所だけだ。
悪役の描写もイマイチ足りない感じがする。
以上の理由からか、テンポが速いというよりは、「要所要所をいい加減に流してる」印象になってしまってもったいない。
とはいえ、全体的にあの独特のルパンらしさは出ているとは思う。銭型との追いかけっこやヒロインとの出会い方など。次元の過去もまあまあだった。競馬場から脱出するくだりや「氷」の使い方もいい。
最近のTVスペシャル、古くからのルパンファンには「昔の方が良かった」と言われることが多いが、そのことについても後で書くことにしよう。

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2006.07.05

ルパン三世に関する面白い動画

youtubeでルパン三世の動画がないかと探していたら、あるわあるわ。 その中で目に付いた面白いものをご紹介。ルパン好きなら知ってるものかもしれない。

Lupin III - Pilot Film (1971)
声が山田氏よりも前のヤツ。私が生まれるはるか前。

実写版ルパン(日本)
田中邦衛が・・・

海外のルパンマニアの作品(実写)1

海外のルパンマニアの作品(実写)2

海外のルパンマニアの作品3
実写版カリオストロ??

CG作品。次元がカッコイイ。

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